たびさんぽhttps://tabi-sampo.comのんびりたびに出かけようSat, 30 May 2026 05:42:28 +0000jahourly1https://tabi-sampo.com/wp-content/uploads/2025/08/cropped-4a332f05ade4ac7bb3c46c472cb5eac8-32x32.pngたびさんぽhttps://tabi-sampo.com3232 人類2000年のあしあとに溺れる。福山『松永はきもの資料館』で知る、足元と人間のディープな関係https://tabi-sampo.com/hakimono/602/https://tabi-sampo.com/hakimono/602/#respondSat, 30 May 2026 05:39:59 +0000https://tabi-sampo.com/?p=602

「まちの小さな郷土資料館だろう」と、正直どこか侮っていた節があった。 しかし、足を踏み入れた瞬間に、その考えは木っ端微塵に打ち砕かれる。 広島県福山市松永町にある「松永はきもの資料館」。ここは、ただの懐かしい展示品が並ぶ ... ]]>

「まちの小さな郷土資料館だろう」
と、正直どこか侮っていた節があった。

しかし、足を踏み入れた瞬間に、その考えは木っ端微塵に打ち砕かれる。

広島県福山市松永町にある「松永はきもの資料館」。ここは、ただの懐かしい展示品が並ぶ場所ではない。弥生時代の田下駄から宇宙靴まで、人類が大地と共に歩んできた「2000年のあしあと」がギッシリ詰まったタイムカプセルだった。

展示の冒頭に、ひとつの案内パネルがある。

「はきもの」は人間と大地の接点であり、大地の上で生活する人間にとって最も大切で基本的なものと言える。わが国では、足につける道具として、足を保護し、仕事の能率を高めるための工夫をほどこしてきた。

私たちが普段、ファッションやコーディネートの一部として何気なく選んでいる靴。しかし本来、はきものとは「人間と大地の接点」であり、人が生きるために最も根源的な道具と言える。

「ぬかるむ大地」を生き抜く:太古の田下駄に見る生存の知恵

展示を巡る中でまず圧倒されるのが、日本人の生活や労働に密着したはきものの多様性。

その象徴が、弥生時代の遺跡からも出土する「田下駄(たげた)」である。深い泥の田んぼに足が沈まないよう、大きな木板に手縄がつけられたその姿は、一見すると不格好な農具にみえる。しかしこれは、当時の人々が「食べるため、生きるため」に必死に頭を絞って作った暮らしの知恵の結晶だ。指でしっかり鼻緒を挟み、足の力を極限まで使ってぬかるみを進む。そこにはファッションの付け入る隙などない、生存のための「機能美」が宿っている。

「働く・祈る」:日本の風土が変形させた狂気的な道具たち

江戸時代以降、日本の風土に合わせて、はきものは信じられないほどのイノベーションを遂げていく。館内に並ぶのは、特定の作業や目的を果たすためだけに、独自の進化を遂げた「職人の道具」と呼ぶべき下駄たち。

職人の道具としての「はきもの」
  • ネヅラ下駄:底に竹製の針がびっしりとついており、遠浅の海岸を歩きながら足元でヒラメやカレイを突き刺して捕まえるためのもの。
  • 足桶(あしおけ):現代のゴム長靴の代わりに作られた桶型のはきもの。水や泥が入らないように工夫され、海苔の養殖や和紙作りの現場で、ぐっと踏みしめて立つために鼻緒がつけられている。
  • 茶切り下駄:鋭い樫の三枚歯を持ち、お茶の葉を踏み締めて細かく刻むために作られた、まさに「足で使うハサミ」のような下駄。

さらに、はきものは精神世界や人々の感情とも深く結びついていた。
夜這いの際に暗闇でも自分の靴を間違えないよう、鼻緒が異常に太く作られた地元の「ヨバイゾウリ」。そして、「二人が一緒になれるように」という願いを込め、台を2枚重ねて編んで好きな人に贈ったというバレンタインのプレゼントのような「ニカイゾウリ(二階草履)」。

生きるための労働から、誰かを想う心まで、昔の人々の生々しい息遣いがすべて「足元」に残されている。

田んぼの泥から、宇宙の砂へ:時空を超える人類のあしあと

展示をさらに進むと、時空が歪んだのかと思うほどのドラマチックな展示が待っている。なんと、アポロ11号が月面着陸した際に使用された「月面靴(ルナブーツ)」が展示されているのだ(前身の博物館がNASAから研究用として借用し、実物同様に制作したもの)。

数千年前(弥生時代)、日本の田んぼで泥にまみれながら「田下駄」を履いていた人類が、知恵と工夫を積み重ねた果てに、ついに地球を飛び出し、誰も踏み入れたことのない「月の大地」へあしあとを残した。この「足元2000年のイノベーション」の軌跡を1つの空間で一気に浴びられるのが、この資料館の凄みだ。

この展示が「松永」にある歴史の必然

なぜ、これほどディープな資料館がこの松永の地にあるのか。そこにはこの町が持つ、もう一つの「生活を支えた歴史」があった。

かつて松永は、瀬戸内海に面した大規模な塩田の町だった。北前船で山陰や北陸へ塩を運ぶ帰りの船に、重し代わりとして積まれたのが、安価な北海道産の材木(アブラギなど)だった。これが軽くて白く、下駄の材料に最適だったことから、明治11年(1878年)、丸山茂助という人物が下駄づくりを始める。

彼は後に下駄製造の機械化・大量生産に成功し、松永は「日本の下駄の6割」を生産する日本一の大産地へと変貌を遂げた。それまで高級品だった下駄を、誰もが当たり前に履ける「大衆の日用品」へと普及させ、日本人の足元を文字通り底上げしたのが、この松永の町だったのだ。

脳がパンクする圧倒的な展示数とボリューム

ここまででも十分にお腹いっぱいになるストーリーなのだが、この資料館の真の恐ろしさは、後半にかけて押し寄せる「狂気的なまでの物量」にある。

実はこの施設、4代目・丸山茂樹氏が下駄産業100年を記念して「先人たちの努力の歴史を後世に残したい」と、驚くべきことに巨額の私財を投じて設立した専門博物館(旧日本はきもの博物館)が前身となっている。だからこそ、まちの資料館のレベルを遥かに超越しているのだ。

その収蔵数は、驚くなかれ「はきもの約13,000点」、そして同じ敷地に併設された「郷土玩具約18,000点」という、文字通り桁違いのスケール。

歩いても歩いても、古今東西、世界中から集められたあらゆる靴、草履、サンダルが壁一面、ショーケースの中にギッシリと並んでいる。さらにそのうちの2,266点が国の重要有形民俗文化財に指定されているというから、もはや日本の宝箱である。

極めつけは「栄光のはきもの」コーナーだ。
長嶋茂雄氏や王貞治氏のベースボールシューズ、ジャイアント馬場氏の巨大な靴、さらには広島カープのレジェンドである黒田博樹投手、前田健太投手、菊池涼介選手らの実物スパイクまでが、これでもかと展示されている。スポーツファンならここだけで1時間は足が止まるだろう。

「ちょっと30分くらいで回れるだろう」という当初の甘い見立ては見事に裏切られ、情報量と物量のダブルパンチに脳がクラクラするほどの、もの凄い見ごたえとボリュームだった。

時間にはゆとりをもってのご来館をおすすめする。

まとめ:いつもの靴が、少し違って見える

気がつけば、展示室を出る頃には心地よい疲労感と、じんわりとした満足感に包まれていた。

現代の私たちは、綺麗に舗装されたアスファルトの上を、お気に入りのスニーカーで何気なく歩いている。しかしその足元には、かつて人々が泥にまみれ、海に浸かり、あるいは愛する人を想いながら積み上げてきた、2000年以上の「人類のあしあと」が敷き詰められている。

国登録有形文化財である大正ロマン漂う洋風建築(旧マルヤマ商店事務所)を眺めながら、資料館を後にするとき、自分の履いている靴の紐を、いつもより少しだけ愛おしく、きゅっと結び直したくなった。

金・土・日・祝日しか開いていない隠れた超重量級スポット。
「ただの資料館」だと思っている人にこそ、ぜひこの圧倒的なボリュームと、足元のディープな沼に溺れてみてほしい。

【施設情報】

  • 施設名:福山市松永はきもの資料館(あしあとスクエア)
  • 開館日:金曜日・土曜日・日曜日、および祝日(年末年始を除く)
  • 開館時間:10:00~16:00(入館は15:30まで)
  • 入館料:大人 300円(高校生以下無料)
  • アクセス:JR山陽本線「松永駅」南口から徒歩5分(駐車場無料)

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宮本武蔵の生誕地「武蔵の里」を歩く。二刀流の起源と『五輪書』に見るリズムの哲学https://tabi-sampo.com/musashi/584/https://tabi-sampo.com/musashi/584/#respondSat, 23 May 2026 05:38:15 +0000https://tabi-sampo.com/?p=584

稀代の剣豪として知られる宮本武蔵。その出生地とされる岡山県美作市の「武蔵の里」を実際に訪れてきました。 のどかな里山の風景が広がるこの地には、若き日の武蔵が過ごした息吹を今に伝えるスポットが点在しています。今回は実際に巡 ... ]]>

稀代の剣豪として知られる宮本武蔵。
その出生地とされる岡山県美作市の「武蔵の里」を実際に訪れてきました。

のどかな里山の風景が広がるこの地には、若き日の武蔵が過ごした息吹を今に伝えるスポットが点在しています。今回は実際に巡った生家跡や神社、お墓を振り返りながら、旅を通じて感じた武蔵のある「意外な才能」について考察してみたいと思います。

剣聖のルーツを辿る:生家跡と武蔵のお墓

まず足を運んだのは「宮本武蔵生家跡」。

武蔵は天正12年(1584年)、この地で生まれました。
父・平田無二斎、祖父・将監ともに十手術の達人という武術家の家系で、かつては「宮本の構(かまえ)」と呼ばれる約60メートル四方の茅葺きの大きな屋敷を構えていたそうです。火災による焼失等で幾度か立て直されていますが、大黒柱の位置は当時と変わらないと伝えられています。恵まれた武術の環境がここにあったのだと実感が湧く場所です。

この日はイベントもあり特別にお庭まで開放されていました。
家の中の様子をうかがうことができましたが、普段は敷地入口のところで進入禁止用のチェーンが設けられているようです。

そこから少し歩き、武蔵神社を抜けた裏手には「武蔵のお墓」が静かに佇んでいます。 晩年を過ごした熊本の地で亡くなった武蔵ですが、後に養子の伊織によってこの地へ分骨されたと伝わっています。父・無二斎の墓と寄り添うように並ぶその姿からは、諸国を彷徨った剣豪が最終的に故郷の家族のもとへと戻ってきた、そんな穏やかな繋がりを感じさせます。

二刀流開眼のヒントとなった「讃甘神社」の太鼓

武蔵の代名詞といえば、大刀と小刀を同時に操る「二刀流(二天一流)」です。その独自の剣術が生まれるきっかけとなった伝承が、ゆかりの古社「讃甘(さのも)神社」に残されています。

少年時代の武蔵は、この神社の宮司(神主)が打つ太鼓の「バチさばき」をじっと観察していたといいます。神事の中で、左右の手に持った2本のバチをそれぞれ異なる動きで、しかし完璧に連動させながらリズムを刻む様子を見て、「剣術も一本の刀に縛られる必要はないのではないか」と閃いたとされています。

右手は大刀、左手は小刀。一見すると別々に動いているようで、全体として調和の取れた一つの流れを作る二刀流の原点が、この神社の太鼓の音の中にあったと思うと非常に興味深いものがあります。

生まれる時代が違っていたら天才ドラマー?

武蔵が晩年に著した兵法書『五輪書』の地之巻には、このような一節があります。

「いかなる道にも拍子(リズム)がある。兵法はいうに及ばず、能や歌、あるいは職人の世界、はたまた世の中のあらゆる営みにおいて拍子が存在する」

「いかなる道」、ここでは兵法や芸能に言及していますが、もっと広く、自然界の水の流れや草木の揺れ、生命の息遣いまでに拍子を感じ取ることができたのでしょう。

武蔵にとって戦いや剣術の本質とは、単なる筋力やスピードの勝負ではなく、相手との間合いや呼吸、すなわち「拍子(リズム)」を支配することだったはずです。

讃甘神社で神主のバチさばきを観察し、そこから二刀流の発想を得たこと。そして生涯を通じて「拍子」の重要性を説き続けたこと。これらを繋ぎ合わせて考えてみると、武蔵の本質は極めて優れた「リズム感」と、それを身体で表現するコントロール能力にあったのではないかと思えてきます。

少し想像を膨らませてみると、もし武蔵が刀の時代ではなく、現代の音楽シーンに生まれていたとしたら、彼は間違いなく「天才ドラマー」として名を馳せていたはず。 左右の手足を完全に独立してコントロールし、相手(周囲の演奏者)の間合いを読みながら変幻自在のグルーヴを操る姿は、彼が理想とした「拍子の体現」そのもののようにも思えます。

勝負の神様「武蔵神社」に見る現代への遺産

「武蔵神社」は、昭和46年に建立された比較的新しい神社ですが、武蔵の生涯が「生涯無敗」であったことから、現在は文武両道や受験合格、スポーツの必勝祈願の神様として親しまれています。

もし「天才ドラマー武蔵」という仮説が的を射ているならば、ここは音楽や何らかの表現活動において「リズム(拍子)を掴みたい」と願う人々にとっても、隠れたパワースポットと言えるかもしれません。

まとめ

「武蔵の里」を実際に歩いてみて強く感じたのは、歴史の教科書に載っているような「お堅い剣豪」の姿だけではありませんでした。

自然豊かな美作の景色の中で、神社の太鼓の音に耳を傾け、世の中のあらゆる事象から「リズム」を感じ取っていた一人の青年の、鋭くもどこか柔軟な感性に出会えたような気がします。皆さんも美作を訪れる際は、ぜひ当時の太鼓の音や武蔵が捉えた「拍子」に思いを馳せながら散策してみてはいかがでしょうか。

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完全燃焼で夜を終わらせるための一杯。広島駅周辺で出会った、王道の博多系豚骨ラーメンhttps://tabi-sampo.com/michimaru/572/https://tabi-sampo.com/michimaru/572/#respondSat, 16 May 2026 07:33:29 +0000https://tabi-sampo.com/?p=572

ほどよく酒が回り、心地よい火照りを感じながら店を出る。夜風が火照った頬を撫でる。瞬間、「このまま帰るわけにはいかない」と、ふと思う。 お腹が空いているわけではない。むしろ、先ほどまで十分に飲み食いしていた。しかしまるでD ... ]]>

ほどよく酒が回り、心地よい火照りを感じながら店を出る。
夜風が火照った頬を撫でる。
瞬間、「このまま帰るわけにはいかない」と、ふと思う。

お腹が空いているわけではない。むしろ、先ほどまで十分に飲み食いしていた。しかしまるでDNAに刻み込まれているかのように、喉の奥が、胃袋の隙間が、ある特定の味を求めて疼いている。
これはもう、食欲というよりは習慣、あるいは、一日の幕を閉じるための儀式のようなものかもしれない。

この「不完全燃焼感」を抱えたまま布団に入るのは、どこか寝覚めが悪い。

広島駅から徒歩6分、清潔で気さくな活気の空間

広島駅周辺には、いくつもの豚骨ラーメンのお店が並んでいる。その中で今回選んだのは、飾り気のない、シンプルな博多系の一軒。

「博多ラーメン みちまる」

店内に入ると、そこには意外なほど清潔な空間が広がっていた。カウンター席がメインだが、手前のボックス席では家族連れが楽しそうに箸を動かしている。夜分のワンオペレーション。忙しそうに立ち回る店主だが、その物腰は気さくで、どこかこちらをリラックスさせてくれる空気感がある。

「いらっしゃい」

その一言に、張り詰めていた(あるいは緩みきっていた)気持ちが、すっと居場所を見つけたような気がした。

塩味強めで酔った舌を覚醒

注文したのは、オーソドックスな豚骨ラーメンに味玉の乗った「味玉ラーメン」。一番シンプルなラーメンにプラス100円で味玉が乗る。その他、麺の上にはチャーシュー、きくらげ、青ネギが彩りを添えている。

運ばれてきた一杯は、まさに王道という言葉がふさわしい見た目。

とりあえずスープを一口。
豚骨の風味がしっかりと感じられるが、それ以上に、強い「塩味」がガツンと味覚を直撃する。
アルコールによって鈍くなっていた舌が、一瞬で目を覚ます。

濃い。けれど、これがいい。
酒を飲んだ後の身体が、これでもかと欲していたのは、まさにこの強烈な輪郭を持った味。思わず「ご飯と一緒に食べても最高だろうな」という罪深い思考が頭をよぎる。

麺を引き上げると、その細さに驚く。まるで「そうめん」かと思うほどの極細だ。しかし、啜ってみれば芯にはしっかりとしたコシがあり、噛みしめる喜びがある。細いからこそスープをたっぷりと抱き込み、一口ごとに塩味と豚骨の香りが鼻を抜けていく。

具材のリアリティと、紅生姜の魔法

トッピングのチャーシューは、少し筋っぽさが残る仕上がり。洗練されすぎていない、その「歯ごたえ」が逆にいい。肉を食べているという実感が、深夜の背徳感をさらに煽ってくれる。そして味玉。箸を入れるとトロリと溢れ出す黄身は、強めのスープの中で唯一の、優しく濃密な休息地点だ。

後半戦、卓上の布陣を見渡す。すりごま、胡椒、そして紅生姜。

強烈な塩味に対し、紅生姜の酸味を投入する。するとどうだろう。あんなにガツンと響いていた塩気が、酸味によって絶妙に中和され、新たな食欲の波が押し寄せてくる。

一杯のラーメンが、終わりに向かうどころか、紅生姜の魔法によって再び輝き出す。気がつけば、あれほどパンパンだったはずの胃袋に、スープを飲み干す余白が生まれていた。

「喰えば喰うほど腹が減る」と誰かが言っていた気がするが、まさにそんな感じか。

夜が完結

最後の一口を飲み干し、ふぅ、と小さく息を吐く。

店を出ると、相変わらず夜風は涼しい。けれど、先ほど感じていた不完全燃焼感は、もうどこにもない。胃の中に温かな重みを感じ、舌に残る塩味の余韻を楽しみながら、私はようやく家に帰る決心がついた。

ようやく今日を終えることができる。

そんな大層間抜けなことを考えながらも、ただ、この一杯で今日という日が正しく閉じられた。そんな安堵感とともに、少しだけ足取りが軽くなった。

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主役になれない僕らに響く、脇役の矜持。福山「まちづくり博物館」https://tabi-sampo.com/facm02/559/https://tabi-sampo.com/facm02/559/#respondFri, 08 May 2026 21:19:06 +0000https://tabi-sampo.com/?p=559

福山自動車時計博物館のすぐ向かいに、「まちづくり博物館」という建物がある。 2022年に開館した、自動車時計博物館の別棟的な施設だ。 正直に白状すると、最初は自動車時計博物館を満喫した帰りに「向かいにもなんかあるな」と、 ... ]]>

福山自動車時計博物館のすぐ向かいに、「まちづくり博物館」という建物がある。 2022年に開館した、自動車時計博物館の別棟的な施設だ。

正直に白状すると、最初は自動車時計博物館を満喫した帰りに「向かいにもなんかあるな」と、ついでに立ち寄っただけだった。入館料は無料。失礼ながら「メインの博物館のバーターというか、おまけ的な場所か」くらいに高を括っていた。

しかし、この施設の建物や展示品にもやはり歴史があり、中を見て回るうちに、そんな風に見くびっていた自分を少し反省することになった。

傷を負った部材たちの「建築的コラージュ」

まず、建物そのものが少し変わっている。昭和10年頃に建てられ、福山空襲の戦火を免れた「富屋酒店」という店舗兼住宅を、わざわざ400メートルほど離れた場所から移築・リノベーションしたものだそうだ。

それだけではない。建物を支える大黒柱は、元々は神辺城の惣門で、その後實相寺の山門として移築されたものの、事故で破損してしまった柱を再利用している。階段の手すりは福山城公園の整備で伐採された松の木であり、門扉は水呑町にあった松坂産業の旧社屋のものだ。

空襲を生き延びた家屋、事故で折れた柱、切り倒された木。それぞれが本来の役目を終え、あるいは傷を負って行き場を失ったはずの部材たちが寄せ集められ、新たな構造体としてこの空間を形作っている。

体験の本館と、記憶の別棟

本館である自動車時計博物館は、「のれ・みれ・さわれ・写真撮れ」をモットーにした体験型の空間。
クラシックカーに乗り込み、からくり時計の音に耳を傾ける。直接モノに触れて楽しむ、ある種のテーマパークのような賑やかさがある。

対して、こちらの別棟はひたすらに静か。ここにあるのは、福山という街がたどってきた時間そのもの。

江戸時代の福山城の図面に現在の福山駅を重ね合わせた展示を見ると、現代の駅がかつてのお城の中心部にすっぽりと収まっていることがわかる。普段何気なく歩いているアスファルトの下に、かつての城郭が眠っているという事実。

そして2階へ上がると、映画『黒い雨』の撮影協力資料や、広島平和記念資料館から撤去されたものと同様の「被爆再現人形」が展示されている。これらは決して感傷を煽るためではなく、この土地が確実に経てきた歴史の層として、ありのままに置かれている。

なぜ「まちづくり」博物館なのか

展示されているのは、能宗館長たちが実際に関わってきたという、市内のマンション建築のパース図や、商店街のアーケードを撤去した際の記録などだ。普通なら、建物が完成したり工事が終わったりすれば、そのまま散逸して捨てられてしまうような図面や書類の数々。

歴史の教科書に載るような大きな出来事だけでなく、こうした「日常の延長にある街の新陳代謝」の記録を、誰かが拾い集めておかなければ街の記憶は消えてしまう。だから「まちづくり博物館」という名前なのだ。

主役になれない私たちのための場所

一通り見終えて外に出た時、自分の浅はかさを反省した。
バーターだなんて言って、本当にごめんなさいだ。

確かに、この「まちづくり博物館」は主役ではないかもしれない。観光客の多くは向かいのクラシックカーに目を奪われ、こちらは素通りしてしまう人もいるだろう。

けれど、この場所には明確な役割がある。
本館が「体験と懐かしさ」を提供するなら、こちらは「都市の成り立ちと日常の記憶」を補完している。二つが揃って初めて、この場所に独特の魅力が生まれているのだと思う。

世の中の大半の人間は、スポットライトを浴びる主役にはなれない。
脇役。どこか端っこの方で静かに生きている。それでも、事故で折れた柱が今も立派に建物を支えているように、何か自分なりの役割を持って生きていけたら。

そんなことを、ふと考えさせられた。派手さはないけれど、なんだか少しホッとできる場所です。自動車時計博物館を訪れた際は、ぜひこちらの扉も開けてみてください。

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不便だからこそ愛おしい。乗って、触れて、昭和の記憶を追体験する「福山自動車時計博物館」https://tabi-sampo.com/facm/541/https://tabi-sampo.com/facm/541/#respondSat, 02 May 2026 00:11:55 +0000https://tabi-sampo.com/?p=541

昭和ノスタルジーを感じさせるスポットや施設は探せば意外なほどあちこちに存在します。でも、今回訪れた「福山自動車時計博物館」は、よくある作られたレトロ施設とは全くの別物。ここは、ただ古いものを並べている場所ではありません。 ... ]]>

昭和ノスタルジーを感じさせるスポットや施設は探せば意外なほどあちこちに存在します。でも、今回訪れた「福山自動車時計博物館」は、よくある作られたレトロ施設とは全くの別物。
ここは、ただ古いものを並べている場所ではありません。
館長の並々ならぬ情熱と魂がこもったコレクションたちが、単なる「展示物」という枠を超え、体験を通して私たちの芯の部分に直接語りかけてくるのです。

福山自動車時計博物館とは?

広島県福山市にあるこの博物館(JR福山駅【北口】から徒歩12分ほど)は、「のれ・みれ・さわれ・写真撮れ」をモットーにした体験型博物館です。館長能宗孝(のうそう・たかし)氏の「生きた産業遺産を残したい」という強い理念のもとで1989年に作られました。
実は過去には、その熱すぎる思いゆえに市(行政)と対立した時期もあったそうです。しかし、その信念を貫き通した結果、今では福山市の公式ホームページにも観光スポットとして堂々と掲載されるほど、地域を代表する施設になっています。

「のる・ふれる」からこそ見えてくる、車の街の記憶と空気

私は特別車好きというわけではありません。ですが、この博物館で一番心を動かされたのは、実際に車の運転席に乗り込み、ハンドルを握った瞬間でした。
多少の遠慮を持ちつつドアを開け、硬いシートに座り、当時の視点から車外の景色を眺めてみる。外から綺麗なクラシックカーをただ眺めているだけでは絶対にイメージできない、当時の車の街の記憶と空気感がふっと脳内に流れ込んでくる感覚があります。

乗り心地はお世辞にも良くありません。乗り降りも不便だし、エアコンもなければパワステもない。いかに現在の自動車が人間工学に基づいて、快適に考え抜かれて作られているかが逆によくわかる体験。でも、なぜかたまらなくワクワクします。

飛行機のコックピットに座ったこと、あります?

館内には、大正・昭和のクラシックカーだけでなく、江戸時代の和時計、著名人の蝋人形、さらには軽飛行機まで、ジャンルレスなコレクションがひしめき合っています。
普通、博物館の展示物といえば「お手を触れないでください」が当然のルール。しかしここでは、遠慮はいりません。子どもも大人も自由に触れていいんです。

本物の軽飛行機「パイパーチェロキー」。飛行機のコックピットに座って操縦桿を握ったことはありますか?ここではそんな非日常の体験が、ごく当たり前にできてしまうのです。

ただの鉄の塊じゃない、ドラマを抱えた名車

特別車好きでなくても思わず胸が熱くなるのが、展示されている車たちがそれぞれに抱えている「ドラマ」。

例えば、日本唯一の展示車両とも言われるマツダのオート3輪「バタンコタクシー(マツダ号PB型)」。戦後間もない広島で活躍したこのタクシー仕様の車両は、当時20台ほどしか生産されておらず、営業車として酷使されたためオリジナルの車両は残っていません(展示車は当時の技術者の記憶を頼りに復元されたもの)運転席はドアのない開放式でありながら、客室部分は密閉型のキャビンを採用しているという独特の造りが特徴。座席に腰を下ろすと、復興へ向かう当時の広島の街を懸命に走り抜けた人々の熱気や息遣いが伝わってくるようです。


また、「トヨペットクラウン(通称:観音クラウン)」も見逃せません。実はこの車、館長が譲り受けた時点では砂泥まみれの無惨な姿でした。それを約3年もの歳月をかけて手作業で修復し、見事復活を遂げた「不死身のクラウン」なのです。昭和63年の瀬戸大橋開通パレードにも参加したというエピソードを聞き、ピカピカに磨き上げられた車体に触れると、「生きた産業遺産を残す」という館長の強い思いがダイレクトに迫ってきます。

「不便が愛おしい」〜スマホ時代に生きる私たちが惹かれる理由〜

しばしば思うことがあります。昭和やそれよりもっと昔の時代は、現代人が生きるにはあまりにも不便で過酷な時代。何もかもが手作業で、時間も手間もかかる。それなのに、なぜ私たちはこれほどまでに心惹かれ、胸の奥がうずうずするのでしょうか。

当博物館は、大ヒット映画『ALWAYS 三丁目の夕日』に劇用車としてトヨペットクラウンなどを貸し出しています。あの映画が国民的な大ヒットを記録したのも、きっと私と同じように「不便が愛おしい」と感じる方が多くいたからではないでしょうか。私たちは今、指先一つ、スマホのアプリやネットで生活が完結する、極めて便利な世界に生きています。でも心のどこかで、そんな便利すぎる世界に不自由さを感じていて、手触りのある「不便さ」を求めているのかもしれません。
決して特別な車好きでなくても、この博物館での体験は深く、強く刺さります。「福山自動車時計博物館」は、私たちが忘れていた大切な何かを思い出させてくれる、最高の場所でした。

建物内に収まりきらない車たち
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【山口徳山】戦禍を越えてきた鉄と光。周南の海辺で、静かな熱量を感じるhttps://tabi-sampo.com/tokuyama/532/https://tabi-sampo.com/tokuyama/532/#respondThu, 23 Apr 2026 23:27:44 +0000https://tabi-sampo.com/?p=532

夜の帳が下りると、瀬戸内海に面した山口県周南市の沿岸部は、まるで別世界のような光景へと変貌します。暗闇に浮かび上がるのは、無数の光を放つ巨大なプラント群、空へと伸びる煙突、そして海面に揺らめく黄金色の反射光。2011年に ... ]]>

夜の帳が下りると、瀬戸内海に面した山口県周南市の沿岸部は、まるで別世界のような光景へと変貌します。暗闇に浮かび上がるのは、無数の光を放つ巨大なプラント群、空へと伸びる煙突、そして海面に揺らめく黄金色の反射光。2011年に「日本夜景遺産」にも認定されたこの周南工場夜景は、ただ美しいイルミネーションとしてそこにあるのではありません。その圧倒的な「非日常の機能美」の裏には、戦前から戦後へと続く、街と人々のたくましい歴史の歩みが隠されています。

海軍の燃料拠点として産声を上げた戦前

周南コンビナートの歴史は古く、明治38年(1905年)に旧海軍の「海軍煉炭製造所」が設立されたことに遡ります。瀬戸内海の良港である地の利を生かし、大正時代には苛性ソーダ工場(現在のトクヤマのルーツである日本曹達工業など)が立地。大正11年には徳山港が開港し、特別輸入港に指定されました。

昭和に入ると、煉炭製造所は「第三海軍燃料廠」へと改称・拡張され、日本の石油精製の主力拠点となります。無機化学や有機化学、鉄鋼などの産業が集積し、徳山の街は日本屈指の重化学工業地帯として大いなる発展を遂げました。プラントの骨格はこの時代から、国家の命運を背負う重厚な機能美を宿し始めてきました。

焦土からの再生。たくましき戦後の復興

しかし、その重要な拠点であったがゆえに、街は悲劇に見舞われます。昭和20年(1945年)、徳山は大規模な空襲を受け、海軍燃料廠はもちろん、市街地も甚大な被害を受けました。焦土と化した街。かつての誇り高き工場の姿は失われました。

それでも、この街は決して光を絶やしませんでした。

終戦後、連合国軍に接収されていた旧軍用地は徐々に返還され、昭和30年代には出光興産などが製油所の操業を開始。また、大正時代からこの地に根を張っていたトクヤマ(旧徳山曹達)などの企業も、日本の高度経済成長を力強く牽引していくことになります。軍事目的であった施設や土地は、平和な市民生活と豊かな社会を創り出すための産業コンビナートへと生まれ変わったのです。

幾多の困難を乗り越え、鉄骨を組み上げ、煙突を立て直した人々の執念とエネルギー。現在私たちが見上げている巨大なプラント群は、焦土から立ち上がった「たくましさ」の結晶に他なりません。

そして現在の夜景へ。機能が昇華した圧倒的な美

現代の周南コンビナートの夜景がひときわ明るく輝いているのには、実は産業的な理由があります。無機化学の工程(電気分解など)で膨大な電力を必要とするため、企業による「自家発電」が非常に盛んなのです。その発電規模は全国のコンビナートの中でも群を抜いており、結果としてあの煌々とした不夜城のような輝きを生み出しています。

晴海親水公園のヤシの木のシルエット越しに見る、異国情緒と無機質なメカニズムの融合。

周南大橋の眼下に広がる、うねる配管と光のパノラマ。

太華山の山頂から見下ろす、宝石箱をひっくり返したような市街地と工場の共演。

これらの光は、誰かに見せるために作られたものではありません。24時間365日、安全に、そして効率的に生産を続けるための「機能」としての光です。しかし、戦前の国策から始まり、戦禍による破壊、そして戦後の奇跡的な復興という激動の歴史を経たその姿は、機能性を極めたからこそ辿り着ける「究極の美」を放っています。

おわりに

周南の海辺に立ち、海風を感じながら工場夜景を眺めるとき、ふと思い出してみてください。

このまばゆい光の一つひとつが、焦土から這い上がり、日本の近代化と経済成長を支え続けてきた名もなき人々の汗と情熱の証であることを。

たくましく生き抜いてきた歴史があるからこそ、周南の工場夜景はこれほどまでに美しく、私たちの心を強く打つのです。

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特急ソニックの青と白。「これじゃない感」に包まれる我が子の横で、革張りシートに沈み込む。https://tabi-sampo.com/sonic/518/https://tabi-sampo.com/sonic/518/#respondSun, 19 Apr 2026 05:53:59 +0000https://tabi-sampo.com/?p=518

九州の東海岸をなぞるように走る、特急ソニック。大分や別府へ向かう旅の道中、その特徴的な列車に揺られる時間は、旅の大きな楽しみの一つ。 特に我が子らにとっては、某ハンバーガーチェーンのおもちゃ付きお子様セットでゲットし、遊 ... ]]>

九州の東海岸をなぞるように走る、特急ソニック。
大分や別府へ向かう旅の道中、その特徴的な列車に揺られる時間は、旅の大きな楽しみの一つ。

特に我が子らにとっては、某ハンバーガーチェーンのおもちゃ付きお子様セットでゲットし、遊び倒した「青いソニック」に乗ることが、この旅のハイライト。

になるはずだった。
メタリックブルーの装甲をまとった近未来のロボットを思わせるメカニックな車体、その車体を見るだけで様々な妄想ストーリーやファンタジーが頭に浮かんでくる。想像力を掻き立てる。内装においては誰もが知るあの有名アニメーションキャラクターの(ような)可愛らしい耳の形をしたヘッドレスト。
かっこよさと遊び心が詰まったそんな憧れの列車を、駅のホームで今か今かと待ちわびていました。

ホームに滑り込んできたのは、純白の車両

やがて、アナウンスと共に列車がホームへ近づいてきました。
しかし、目の前に現れたのは、想像していたシャープな青色ではなく、なめらかで丸みを帯びた「真っ白」な車両。

「ソニックはまだぁ?」
と、子どもから投げかけられる容赦ない問い。

実は、特急ソニックには青い車両の「883系」と、白い車両の「885系」の2種類が運用されています。青い列車が来ると信じて疑わなかった子どもの表情には、明らかな戸惑いが浮かび、その場の空気はなんとも言えない「なんか、これじゃない感」に静かに包まれてしまいました。

戸惑いから一転、上質なラウンジのような車内へ

ちょっぴり肩を落とした様子の子どもの手を引き、車内へ足を踏み入れると、そこには外観から想像する以上の優雅な空間が広がっていました。

白いソニック(885系)の車内に入ると、足元には白木のフローリングが敷かれ、座席には黒い本革があしらわれている。青いソニック(883系)にも革張りの座席はあるが、こちらは木材と革の組み合わせが醸し出す、どこか書斎のような落ち着いた設え。デッキ部分も無駄がなく、ちょっとしたギャラリーのように整っている。子どもが喜ぶ遊び心というよりは、大人のための静かな移動空間といった趣きがあります。

最初は「青じゃない」と不満げだった子どもも、シートに深く腰を下ろすと、その落ち着いた雰囲気に感化されたのか次第に大人しくなっていきました。というか寝てしまった。

とは言え、親としては子どもが過度にはしゃぐよりも、こうして静かに過ごしてくれる時間のほうが正直ありがたい。思い描いていた「青」には乗れなかったが、結果的にこの上質な空間でコーヒーでも飲みながら一息つけるのだから、旅の巡り合わせとしては悪くない。シートに深く身を預けながら、思いがけない静かな満足感を噛み締めることができました。

「青」と「白」のささやかな見分け方

「どうしても青いソニックに乗りたい(乗せてあげたい)」という場合は、事前の時刻表チェックが役に立ちます。

予約画面や時刻表を確認するときに注目するポイントとして、「7両編成」とあれば883系(青)、「6両編成」とあれば885系(白)となっている。
このたった1両の差に気づけるかどうかが、このささやかな希望を叶える鍵になります。

旅の終わりに

思い描いていた「青」には乗れませんでしたが、思いがけず「白」の上質な空間を味わうことができ、結果としてとても穏やかで贅沢な移動時間となりました。

とはいえ、やはりあのユニークな青いソニックもまた魅力的。
次回の九州旅行では、少しだけ時刻表を意識して、青いソニックの車窓から海を眺めてみたいと思います。

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このややこしい現実を脱ぎ捨てて、日々を開放的に生きていきたい。「艮神社」で願う、息苦しい日常からの解放。https://tabi-sampo.com/ushitorajinja/501/https://tabi-sampo.com/ushitorajinja/501/#respondSat, 11 Apr 2026 02:01:13 +0000https://tabi-sampo.com/?p=501

なんだか名前がかっこいい。この自分の奥底にある少年の心をくすぐってくる神社に、思いがけない発見があった。 神社の名前は「艮神社」。お恥ずかしい話だが、初見でこれが読めなかった。「良(りょう)」に似ているけれど違う。正解は ... ]]>

なんだか名前がかっこいい。
この自分の奥底にある少年の心をくすぐってくる神社に、思いがけない発見があった。

神社の名前は「艮神社」
お恥ずかしい話だが、初見でこれが読めなかった。
「良(りょう)」に似ているけれど違う。
正解は「うしとら」神社

といっても同名の神社は近隣地域に多く存在している。
今回伺ったのは広島県福山市北吉津町にある艮神社だが、マップで検索してみただけでも福山駅から半径2km圏内に北吉津町のほか5か所の艮神社を確認することができた。

また、「艮神社」と聞いて、映画のロケ地にもなった尾道の神社を思い浮かべる人もいるかもしれない。やはり、同名の神社は各地に意外と多く存在するため、ナビの設定を間違えてしまうと全く違う場所へ導かれてしまうので注意が必要だ。

城の鬼門を護る。「丑」と「寅」の間

なぜ「うしとら」というかっこよくも変わった名前なのかについては、 十二支の方角で「丑(うし)」と「寅(とら)」の間、つまり北東を指しているからだ。
他にも「巽(たつみ)」は南東、「坤(ひつじさる)」は南西、「乾(いぬい)」は北西と、それぞれの干支に挟まれた方角を干支を組み合わせた呼び名で表現している。中でも「艮(うしとら)」は私的に一番かっこいいと思っている。

さて、北東といえば「鬼門」である。
初代福山藩主の水野勝成が福山城を築いた際、城の鬼門を鎮め、厄を払う守護神としてこの地が重要視されたという。創建自体は平安時代に遡るというが、時代とともに役割を変えながら今の形に落ち着いている。

学生時代の歴史の授業は退屈だったのに、その土地の役割や名前の由来のパズルがカチッとはまる感覚は、歳を重ねるにつれて妙に面白く感じてくるから不思議だ。

疫病退治より、笑いと「覆いを取る」願い

静かな境内には、須佐之男命(スサノオノミコト)、伊邪那岐命(イザナギノミコト)、そして天宇受売命(アメノウズメノミコト)という、誰もが一度は耳にしたことのある有名神様が祀られている。

須佐之男命(スサノオノミコト)

伊邪那岐命の禊(みそぎ)から生まれたとされる神。高天原で散々暴れて天界を追放されるという、いわゆる「やらかし」の過去を持つ。しかし、流れ着いた出雲の地では八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治して娘を救い、英雄となるのだから人生は分からない。現在では厄除けや疫病退治の神として信仰を集めている。手痛い失敗からでも見事に立ち直るその逞しさは、なんとなく勇気をもらえるような気がする。

伊邪那岐命(イザナギノミコト)

妻である伊邪那美命(イザナミ)とともに、日本の国土や数多くの神々を産み出した「国生み」の神。しかし、亡き妻を追って黄泉の国へ向かうものの、変わり果てた妻の姿に恐れおののき、逃げ帰って離縁を告げるという人間臭い一面も併せ持つ。どれほど偉大な神様であっても、修羅場からは逃げ出したくなるものらしい。そう思うと妙な親近感が湧くが、現在は生命の営みや縁結びの神として広く信仰されている。

天宇受売命(アメノウズメノミコト)

日本最古の踊り子とも言える芸能の女神。太陽の神・アマテラスが天岩戸に引きこもり世界が闇に包まれた際、岩戸の前でなりふり構わず肌を晒して踊り、神々を大爆笑させた。その笑い声につられたアマテラスが外を覗き、世界に光が戻ったという神話の立役者だ。理屈や深刻さよりも、ただ馬鹿馬鹿しく笑い飛ばすことのパワーを教えてくれる。息苦しい今の時代にこそ、彼女のような底抜けの明るさにあやかりたいものだ。

以前、テレビ番組の開運スポットとして紹介されたこともあるそうだ。
当時は未だコロナ禍が収まっておらず、誰でもマスク着用が当たり前のころ。
その状況下において、疫病退治といえば本来は「厄除けの神」であるスサノオの出番。スサノオに疫病退治を皆が願うのかと思いきや、どうも様相が違ったようだ。

本殿に祀られているのはスサノオとイザナギ。
一方、アメノウズメは境内末社の宇受売神社に祀られている。要するに、艮神社のメインの御祭神ではない。
しかし、当時の世間の心をより引き付けたのはアメノウズメの方だった。

神話の中で、天岩戸に引きこもってしまった太陽の神を連れ出すため、アメノウズメはなりふり構わず肌を晒して踊り、神々を大笑いさせた。いつ終わるともしれない息苦しい日々の中で、顔を覆うものを取り払い、気兼ねなく笑い合いたい。
疫病をねじ伏せる強さよりも、彼女の持つあっけらかんとした明るさと「脱マスク」にも通じる覆いを取るパワーが、当時の人々の願いと重なり、共感を生んだのだった。

歴史のひとコマとして明日を迎える

城下町を見守り続けてきた境内に立っていると、悩みや抱えていたモヤモヤが薄れていく気がする。何百年も前からある場所に身を置くと、今の悩みや閉塞感も、いつかは歴史のひとコマになるのだろうと変に安心したりもする。

最初は名前のかっこよさにひかれてたどり着いただけだったが、そこにはとても魅力的なエピソードがあった。
それは艮神社に限ったことではないだろう。
こうして静かな場所で息抜きをしながら、また明日からぼちぼちやっていこうと思う。

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【仙台・村上屋餅店】いつか消えゆく幻の味。140年続く「づんだ餅」発祥の老舗が教えてくれることhttps://tabi-sampo.com/murakamiya/483/https://tabi-sampo.com/murakamiya/483/#respondSat, 04 Apr 2026 00:04:34 +0000https://tabi-sampo.com/?p=483

「いつでも行ける」と思っていた場所が、ある日突然、手の届かない場所になってしまう。歳を重ねると、そういう少し切ない経験が増えてくる。 仙台の街で確かな存在感を放ち続ける、「村上屋餅店」。ここは、全国区の仙台名物「づんだ餅 ... ]]>

「いつでも行ける」と思っていた場所が、ある日突然、手の届かない場所になってしまう。
歳を重ねると、そういう少し切ない経験が増えてくる。

仙台の街で確かな存在感を放ち続ける、「村上屋餅店」。
ここは、全国区の仙台名物「づんだ餅」の発祥とも言われる、明治10年創業の老舗中の老舗。連日行列ができるほどの有名店でありながら、鮮やかな「づんだ色」の暖簾をくぐると、昔ながらの気取らない空気が流れている。
そんな安心感ある佇まいが魅力のお店。

実は2026年3月30日より、店主が入院され、お店は当面の間お休みとなってしまっている。後継者はおらず「今の代で終わりになるだろう」という。
もしかしたら、もうあの味には出会えないのかもしれない。それでも、あの暖簾が再び風に揺れる日を期待し、140年続くこの老舗の背景と、無事に再開された暁には絶対に食べてほしい一皿についてご紹介。

1. 「ず」ではなく「づ」。看板に込められた140年の意地

看板を見ると、一般的な「ずんだ」ではなく、頑なに「づんだ」と書かれている。
これには諸説あるらしく、豆を打って作る「豆打(づだ)」が訛ったとか、かの伊達政宗公が陣太刀の柄で枝豆を砕いたとか、色々と謂れがあるそうで。

実はこのお店、明治10年に餅屋として創業する前は、伊達藩の「御用菓子司」を務めていたという格式高い家系なんだとか。もともと各家庭で作られる郷土料理だったづんだ餅を、お店のメニューとして初めて商品化したのもこのお店。そんな歴史の重みを知ると、この「づ」の一文字に込められたプライドみたいなものを感じて、目の前のお餅がちょっとだけ特別なものに見えてくるから不思議だ。

仙台、到着。最初の一杯に「歴史」を混ぜる。ずんだシェイクの深淵に触れる。

2. 「づんだはルーに過ぎない」。職人の手仕事に想いを

我々素人はつい「づんだの餡が美味しい」のだろうとおもってしまうが、店主のポリシーは明確。「あくまで餅が主役。餡は餅をおいしく食べるためのエッセンス、カレーで言えばルーに過ぎない」とのこと。

それだけ餅へのこだわりが強いということ。主役の餅には宮城県産のブランド米「みやこがね」を使い、作り置きせずその都度つく。ただ、脇役とされる「ルー」にも尋常ではない手間がかかっている。鮮やかな緑色となめらかな舌触りを出すため、枝豆の薄皮を一つひとつ手作業で取り除いているのだそうだ。見えないところで泥臭く手間暇をかける実直さに、ただただ頭が下がるばかり。

3. 迷ったらこれ一択。大人の胃袋と心を満たす「三色餅」

メニューを眺めてあれこれ迷うのも楽しいが、王道は「三色餅」。
づんだ、ごま、くるみの三種類を一度に味わえる、イートイン客のほとんどが注文するという看板メニュー。

運ばれてきたお盆には、色鮮やかな三色の餅と、口休めのお漬物。
どれもおいしそうと思うと同時に「美しい」と感じてしまうほどに洗練された見た目。づんだのやさしい薄緑に、鏡かな?と思うほどのごまの黒い光沢、なめらさに包み込まれそうなくるみ。どれから手を付けようか悩んでしまう。

もちろんどれもおいしかったが、意外にも一番好みだったのは「くるみ」。程よい甘さとなめらかさ、クルミの風味が絶妙で、重くもなく何個でも行きたくなるような、そんなバランスのいい味だった。

まだまだ暑い9月頃に伺ったが、程よく冷えた餅たちが食欲を刺激していく。

「せっかくだから、他のメニューも頼んでみようか」と一瞬頭をよぎるが、あれもこれもと欲張らず、目の前にある確かな美味しさを一つひとつ、ゆっくりと噛み締める。
この一皿で充分に心が満たされる。

4. 目の届く範囲で、無理をしない経営

これだけ上質な商品を提供できるのだから、百貨店に出店して多店舗展開すればもっと儲かるのではと、薄汚れた大人の思考でついそんなことを考えてしまうが、村上屋餅店はそれを良しとしていない。
「品質に目が行き届かなくなるから」と、デパートなどへの出店は一切行わず、あくまで目の前のお客さんに向き合う姿勢を貫いている。

常に右肩上がりの成長や効率化を求められる現代。身の丈に合ったペースで、実直に餅をつき続けるそのブレない姿勢からはとても大切なことを学べる気がする。

5. 「いつか」は来ないかもしれない。

冒頭でもお知らせしたが、大変心苦しいお知らせがある。
実は、2026年3月30日より、店主が入院されたため当面の間お休みとなっている(今年に入って一度休業され、再開した矢先のこと)。

そして、とても切ない事実なのだが、現在の店主には後継者がおらず、「今の代で終わりになるだろう」と語られている。
永遠に続くものなんて、この世にはない。頭では分かっていても、これだけの歴史とこだわりが詰まった味が途絶えてしまうかもしれないというのは、やはり寂しいものがある。

「いつか行こう」と思っていたあの場所は、明日にはもうないかもしれない。
だからこそ、無事に営業を再開された暁には、ぜひとも村上屋餅店へ足を運びたい。
ただの旅行が、少しだけ意味のある旅になる。
140年の歴史と、職人の意地が詰まったあの柔らかなお餅は、きっと疲れた心と身体に、優しく沁み渡るはず。

【揺れる?】IBEXエアラインズで行く、広島ー仙台の旅 ]]>
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黒瀬街道の常夜灯が照らした旅路。旧街道の不便さから気づく現代のありがたみhttps://tabi-sampo.com/kurosekaidou/465/https://tabi-sampo.com/kurosekaidou/465/#respondSat, 28 Mar 2026 23:23:51 +0000https://tabi-sampo.com/?p=465

スマホの画面が数秒フリーズしただけで、つい指先で画面を何度も叩いてしまう。電車がたった5分遅延しただけで、露骨にイライラして時計を睨みつけてしまう。 昔の生活と比べたら、今の世の中は魔法のように便利で快適になっているはず ... ]]>

スマホの画面が数秒フリーズしただけで、つい指先で画面を何度も叩いてしまう。
電車がたった5分遅延しただけで、露骨にイライラして時計を睨みつけてしまう。

昔の生活と比べたら、今の世の中は魔法のように便利で快適になっているはずなのに。ほんの少しの遅れや、思い通りにいかない小さな不便に出くわすだけで、ひどく心がかき乱されてしまうことがないだろうか。
いつの間にか、すっかり便利さに心を飼い慣らされてしまっているのではないか。

今回、そんな「少しの余裕をなくしてしまった」我々にとって、ちょっと立ち止まって深呼吸したくなるような「黒瀬街道」のご紹介。

海と内陸を結ぶ大動脈「黒瀬街道」

広島県の瀬戸内海に面する呉市の広町から郷原町を抜け、東広島市の黒瀬、そして酒都・西条へと至る道が「黒瀬街道」。

今でこそ高規格幹線道路「東広島呉自動車道」があり、ずいぶんと早く移動できる区間になった。
しかし、かつて「黒瀬街道」は、道険しいながらも海沿いの地域と内陸の盆地を結ぶ大動脈であり、人や物資が絶えず行き交い、長らく地域の経済や文化を支える重要な位置づけにあった街道だった。

交通の難所から馬車道への歴史

地域にとって重要な道であった一方、かつての黒瀬街道は大変狭い石畳で、急な坂が続く交通の難所でもあった。
重い荷物を背負い、自分の足だけを頼りに峠を越える道のりは、現代の我々からは想像もつかないほど過酷なものだったはず。

その後、明治時代に入ると、黒瀬の豪家であった平賀寛夫氏によって改修が計画される。
馬車なども通れるようにと道が開かれ、街道は時代とともに近代化の歴史をたどっていくことになる。

闇夜の命綱であった「常夜灯」

そんな過酷な道のりをゆく旅人にとって、特別な存在だったものがある。
呉市の広町から郷原町にかけての山間部に、今もひっそりと佇む「黒瀬街道の常夜灯」。

明治16年に建てられたこの常夜灯は、街灯など存在しなかった漆黒の闇夜において、往時の旅人の安全を守る命綱ともいえる存在。冷たい夜道で遠くにぽつんと灯る明かりを見つけた時、当時の旅人はどれほど安堵したことか。それは単なる明かり以上の、心の支えだったのだと思う。

南にしか口がない理由

ちなみに、この常夜灯には少し興味深い特徴がある。実物を見るとわかるが、火を灯すための「口」が南側にしかついていない。

吹き下ろす冷たい北風から大切な火を守るための工夫だったのか。あるいは、南側の呉方面から急な坂を息を切らして登ってくる旅人を真っ先に出迎えるためだったのか。

確かな理由は当時の人のみぞ知るところだが、そんな小さな細工を眺めていると、かつてこの道を行き交った人々の姿や、それを思いやる静かなストーリーが実像をもって浮かび上がってくる。

常夜灯の向かいに六角堂

常夜灯のすぐ向かいには「六角堂」というお堂がぽつんと建っている。
何が祭られているのかうかがい知ることはできないが、旅人の往来安全を祈願してのものだろう。
冬時期には入口の階段も落ち葉に埋め尽くされていたが、決してほっとかれているわけでもなく、しっかりと維持管理されているように見える。

不便さを知ることで気づく、今のありがたみ

現代の生活は本当に便利になった。
ボタン一つで部屋は明るくなり(何ならボタンすら押さないことも)、車に乗れば快適な温度のまま目的地へ着く。

しかし、こうしてかつての不便で過酷な旧街道の歴史に触れ、常夜灯を見つめていると、「今の当たり前の便利さは、先人たちの途方もない苦労の上に成り立っているのだ」と、静かな感謝の念が湧いてくる。地域の歴史を知ることで、いつもの風景が少しだけ違って見えてくる。旅の面白さは、そんな何気ない発見にあるのかも。

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