たびさんぽhttps://tabi-sampo.comのんびりたびに出かけようSat, 11 Apr 2026 02:01:16 +0000jahourly1https://tabi-sampo.com/wp-content/uploads/2025/08/cropped-4a332f05ade4ac7bb3c46c472cb5eac8-32x32.pngたびさんぽhttps://tabi-sampo.com3232 このややこしい現実を脱ぎ捨てて、日々を開放的に生きていきたい。「艮神社」で願う、息苦しい日常からの解放。https://tabi-sampo.com/ushitorajinja/501/https://tabi-sampo.com/ushitorajinja/501/#respondSat, 11 Apr 2026 02:01:13 +0000https://tabi-sampo.com/?p=501

なんだか名前がかっこいい。この自分の奥底にある少年の心をくすぐってくる神社に、思いがけない発見があった。 神社の名前は「艮神社」。お恥ずかしい話だが、初見でこれが読めなかった。「良(りょう)」に似ているけれど違う。正解は ... ]]>

なんだか名前がかっこいい。
この自分の奥底にある少年の心をくすぐってくる神社に、思いがけない発見があった。

神社の名前は「艮神社」
お恥ずかしい話だが、初見でこれが読めなかった。
「良(りょう)」に似ているけれど違う。
正解は「うしとら」神社

といっても同名の神社は近隣地域に多く存在している。
今回伺ったのは広島県福山市北吉津町にある艮神社だが、マップで検索してみただけでも福山駅から半径2km圏内に北吉津町のほか5か所の艮神社を確認することができた。

また、「艮神社」と聞いて、映画のロケ地にもなった尾道の神社を思い浮かべる人もいるかもしれない。やはり、同名の神社は各地に意外と多く存在するため、ナビの設定を間違えてしまうと全く違う場所へ導かれてしまうので注意が必要だ。

城の鬼門を護る。「丑」と「寅」の間

なぜ「うしとら」というかっこよくも変わった名前なのかについては、 十二支の方角で「丑(うし)」と「寅(とら)」の間、つまり北東を指しているからだ。
他にも「巽(たつみ)」は南東、「坤(ひつじさる)」は南西、「乾(いぬい)」は北西と、それぞれの干支に挟まれた方角を干支を組み合わせた呼び名で表現している。中でも「艮(うしとら)」は私的に一番かっこいいと思っている。

さて、北東といえば「鬼門」である。
初代福山藩主の水野勝成が福山城を築いた際、城の鬼門を鎮め、厄を払う守護神としてこの地が重要視されたという。創建自体は平安時代に遡るというが、時代とともに役割を変えながら今の形に落ち着いている。

学生時代の歴史の授業は退屈だったのに、その土地の役割や名前の由来のパズルがカチッとはまる感覚は、歳を重ねるにつれて妙に面白く感じてくるから不思議だ。

疫病退治より、笑いと「覆いを取る」願い

静かな境内には、須佐之男命(スサノオノミコト)、伊邪那岐命(イザナギノミコト)、そして天宇受売命(アメノウズメノミコト)という、誰もが一度は耳にしたことのある有名神様が祀られている。

須佐之男命(スサノオノミコト)

伊邪那岐命の禊(みそぎ)から生まれたとされる神。高天原で散々暴れて天界を追放されるという、いわゆる「やらかし」の過去を持つ。しかし、流れ着いた出雲の地では八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治して娘を救い、英雄となるのだから人生は分からない。現在では厄除けや疫病退治の神として信仰を集めている。手痛い失敗からでも見事に立ち直るその逞しさは、なんとなく勇気をもらえるような気がする。

伊邪那岐命(イザナギノミコト)

妻である伊邪那美命(イザナミ)とともに、日本の国土や数多くの神々を産み出した「国生み」の神。しかし、亡き妻を追って黄泉の国へ向かうものの、変わり果てた妻の姿に恐れおののき、逃げ帰って離縁を告げるという人間臭い一面も併せ持つ。どれほど偉大な神様であっても、修羅場からは逃げ出したくなるものらしい。そう思うと妙な親近感が湧くが、現在は生命の営みや縁結びの神として広く信仰されている。

天宇受売命(アメノウズメノミコト)

日本最古の踊り子とも言える芸能の女神。太陽の神・アマテラスが天岩戸に引きこもり世界が闇に包まれた際、岩戸の前でなりふり構わず肌を晒して踊り、神々を大爆笑させた。その笑い声につられたアマテラスが外を覗き、世界に光が戻ったという神話の立役者だ。理屈や深刻さよりも、ただ馬鹿馬鹿しく笑い飛ばすことのパワーを教えてくれる。息苦しい今の時代にこそ、彼女のような底抜けの明るさにあやかりたいものだ。

以前、テレビ番組の開運スポットとして紹介されたこともあるそうだ。
当時は未だコロナ禍が収まっておらず、誰でもマスク着用が当たり前のころ。
その状況下において、疫病退治といえば本来は「厄除けの神」であるスサノオの出番。スサノオに疫病退治を皆が願うのかと思いきや、どうも様相が違ったようだ。

本殿に祀られているのはスサノオとイザナギ。
一方、アメノウズメは境内末社の宇受売神社に祀られている。要するに、艮神社のメインの御祭神ではない。
しかし、当時の世間の心をより引き付けたのはアメノウズメの方だった。

神話の中で、天岩戸に引きこもってしまった太陽の神を連れ出すため、アメノウズメはなりふり構わず肌を晒して踊り、神々を大笑いさせた。いつ終わるともしれない息苦しい日々の中で、顔を覆うものを取り払い、気兼ねなく笑い合いたい。
疫病をねじ伏せる強さよりも、彼女の持つあっけらかんとした明るさと「脱マスク」にも通じる覆いを取るパワーが、当時の人々の願いと重なり、共感を生んだのだった。

歴史のひとコマとして明日を迎える

城下町を見守り続けてきた境内に立っていると、悩みや抱えていたモヤモヤが薄れていく気がする。何百年も前からある場所に身を置くと、今の悩みや閉塞感も、いつかは歴史のひとコマになるのだろうと変に安心したりもする。

最初は名前のかっこよさにひかれてたどり着いただけだったが、そこにはとても魅力的なエピソードがあった。
それは艮神社に限ったことではないだろう。
こうして静かな場所で息抜きをしながら、また明日からぼちぼちやっていこうと思う。

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【仙台・村上屋餅店】いつか消えゆく幻の味。140年続く「づんだ餅」発祥の老舗が教えてくれることhttps://tabi-sampo.com/murakamiya/483/https://tabi-sampo.com/murakamiya/483/#respondSat, 04 Apr 2026 00:04:34 +0000https://tabi-sampo.com/?p=483

「いつでも行ける」と思っていた場所が、ある日突然、手の届かない場所になってしまう。歳を重ねると、そういう少し切ない経験が増えてくる。 仙台の街で確かな存在感を放ち続ける、「村上屋餅店」。ここは、全国区の仙台名物「づんだ餅 ... ]]>

「いつでも行ける」と思っていた場所が、ある日突然、手の届かない場所になってしまう。
歳を重ねると、そういう少し切ない経験が増えてくる。

仙台の街で確かな存在感を放ち続ける、「村上屋餅店」。
ここは、全国区の仙台名物「づんだ餅」の発祥とも言われる、明治10年創業の老舗中の老舗。連日行列ができるほどの有名店でありながら、鮮やかな「づんだ色」の暖簾をくぐると、昔ながらの気取らない空気が流れている。
そんな安心感ある佇まいが魅力のお店。

実は2026年3月30日より、店主が入院され、お店は当面の間お休みとなってしまっている。後継者はおらず「今の代で終わりになるだろう」という。
もしかしたら、もうあの味には出会えないのかもしれない。それでも、あの暖簾が再び風に揺れる日を期待し、140年続くこの老舗の背景と、無事に再開された暁には絶対に食べてほしい一皿についてご紹介。

1. 「ず」ではなく「づ」。看板に込められた140年の意地

看板を見ると、一般的な「ずんだ」ではなく、頑なに「づんだ」と書かれている。
これには諸説あるらしく、豆を打って作る「豆打(づだ)」が訛ったとか、かの伊達政宗公が陣太刀の柄で枝豆を砕いたとか、色々と謂れがあるそうで。

実はこのお店、明治10年に餅屋として創業する前は、伊達藩の「御用菓子司」を務めていたという格式高い家系なんだとか。もともと各家庭で作られる郷土料理だったづんだ餅を、お店のメニューとして初めて商品化したのもこのお店。そんな歴史の重みを知ると、この「づ」の一文字に込められたプライドみたいなものを感じて、目の前のお餅がちょっとだけ特別なものに見えてくるから不思議だ。

仙台、到着。最初の一杯に「歴史」を混ぜる。ずんだシェイクの深淵に触れる。

2. 「づんだはルーに過ぎない」。職人の手仕事に想いを

我々素人はつい「づんだの餡が美味しい」のだろうとおもってしまうが、店主のポリシーは明確。「あくまで餅が主役。餡は餅をおいしく食べるためのエッセンス、カレーで言えばルーに過ぎない」とのこと。

それだけ餅へのこだわりが強いということ。主役の餅には宮城県産のブランド米「みやこがね」を使い、作り置きせずその都度つく。ただ、脇役とされる「ルー」にも尋常ではない手間がかかっている。鮮やかな緑色となめらかな舌触りを出すため、枝豆の薄皮を一つひとつ手作業で取り除いているのだそうだ。見えないところで泥臭く手間暇をかける実直さに、ただただ頭が下がるばかり。

3. 迷ったらこれ一択。大人の胃袋と心を満たす「三色餅」

メニューを眺めてあれこれ迷うのも楽しいが、王道は「三色餅」。
づんだ、ごま、くるみの三種類を一度に味わえる、イートイン客のほとんどが注文するという看板メニュー。

運ばれてきたお盆には、色鮮やかな三色の餅と、口休めのお漬物。
どれもおいしそうと思うと同時に「美しい」と感じてしまうほどに洗練された見た目。づんだのやさしい薄緑に、鏡かな?と思うほどのごまの黒い光沢、なめらさに包み込まれそうなくるみ。どれから手を付けようか悩んでしまう。

もちろんどれもおいしかったが、意外にも一番好みだったのは「くるみ」。程よい甘さとなめらかさ、クルミの風味が絶妙で、重くもなく何個でも行きたくなるような、そんなバランスのいい味だった。

まだまだ暑い9月頃に伺ったが、程よく冷えた餅たちが食欲を刺激していく。

「せっかくだから、他のメニューも頼んでみようか」と一瞬頭をよぎるが、あれもこれもと欲張らず、目の前にある確かな美味しさを一つひとつ、ゆっくりと噛み締める。
この一皿で充分に心が満たされる。

4. 目の届く範囲で、無理をしない経営

これだけ上質な商品を提供できるのだから、百貨店に出店して多店舗展開すればもっと儲かるのではと、薄汚れた大人の思考でついそんなことを考えてしまうが、村上屋餅店はそれを良しとしていない。
「品質に目が行き届かなくなるから」と、デパートなどへの出店は一切行わず、あくまで目の前のお客さんに向き合う姿勢を貫いている。

常に右肩上がりの成長や効率化を求められる現代。身の丈に合ったペースで、実直に餅をつき続けるそのブレない姿勢からはとても大切なことを学べる気がする。

5. 「いつか」は来ないかもしれない。

冒頭でもお知らせしたが、大変心苦しいお知らせがある。
実は、2026年3月30日より、店主が入院されたため当面の間お休みとなっている(今年に入って一度休業され、再開した矢先のこと)。

そして、とても切ない事実なのだが、現在の店主には後継者がおらず、「今の代で終わりになるだろう」と語られている。
永遠に続くものなんて、この世にはない。頭では分かっていても、これだけの歴史とこだわりが詰まった味が途絶えてしまうかもしれないというのは、やはり寂しいものがある。

「いつか行こう」と思っていたあの場所は、明日にはもうないかもしれない。
だからこそ、無事に営業を再開された暁には、ぜひとも村上屋餅店へ足を運びたい。
ただの旅行が、少しだけ意味のある旅になる。
140年の歴史と、職人の意地が詰まったあの柔らかなお餅は、きっと疲れた心と身体に、優しく沁み渡るはず。

【揺れる?】IBEXエアラインズで行く、広島ー仙台の旅 ]]>
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黒瀬街道の常夜灯が照らした旅路。旧街道の不便さから気づく現代のありがたみhttps://tabi-sampo.com/kurosekaidou/465/https://tabi-sampo.com/kurosekaidou/465/#respondSat, 28 Mar 2026 23:23:51 +0000https://tabi-sampo.com/?p=465

スマホの画面が数秒フリーズしただけで、つい指先で画面を何度も叩いてしまう。電車がたった5分遅延しただけで、露骨にイライラして時計を睨みつけてしまう。 昔の生活と比べたら、今の世の中は魔法のように便利で快適になっているはず ... ]]>

スマホの画面が数秒フリーズしただけで、つい指先で画面を何度も叩いてしまう。
電車がたった5分遅延しただけで、露骨にイライラして時計を睨みつけてしまう。

昔の生活と比べたら、今の世の中は魔法のように便利で快適になっているはずなのに。ほんの少しの遅れや、思い通りにいかない小さな不便に出くわすだけで、ひどく心がかき乱されてしまうことがないだろうか。
いつの間にか、すっかり便利さに心を飼い慣らされてしまっているのではないか。

今回、そんな「少しの余裕をなくしてしまった」我々にとって、ちょっと立ち止まって深呼吸したくなるような「黒瀬街道」のご紹介。

海と内陸を結ぶ大動脈「黒瀬街道」

広島県の瀬戸内海に面する呉市の広町から郷原町を抜け、東広島市の黒瀬、そして酒都・西条へと至る道が「黒瀬街道」。

今でこそ高規格幹線道路「東広島呉自動車道」があり、ずいぶんと早く移動できる区間になった。
しかし、かつて「黒瀬街道」は、道険しいながらも海沿いの地域と内陸の盆地を結ぶ大動脈であり、人や物資が絶えず行き交い、長らく地域の経済や文化を支える重要な位置づけにあった街道だった。

交通の難所から馬車道への歴史

地域にとって重要な道であった一方、かつての黒瀬街道は大変狭い石畳で、急な坂が続く交通の難所でもあった。
重い荷物を背負い、自分の足だけを頼りに峠を越える道のりは、現代の我々からは想像もつかないほど過酷なものだったはず。

その後、明治時代に入ると、黒瀬の豪家であった平賀寛夫氏によって改修が計画される。
馬車なども通れるようにと道が開かれ、街道は時代とともに近代化の歴史をたどっていくことになる。

闇夜の命綱であった「常夜灯」

そんな過酷な道のりをゆく旅人にとって、特別な存在だったものがある。
呉市の広町から郷原町にかけての山間部に、今もひっそりと佇む「黒瀬街道の常夜灯」。

明治16年に建てられたこの常夜灯は、街灯など存在しなかった漆黒の闇夜において、往時の旅人の安全を守る命綱ともいえる存在。冷たい夜道で遠くにぽつんと灯る明かりを見つけた時、当時の旅人はどれほど安堵したことか。それは単なる明かり以上の、心の支えだったのだと思う。

南にしか口がない理由

ちなみに、この常夜灯には少し興味深い特徴がある。実物を見るとわかるが、火を灯すための「口」が南側にしかついていない。

吹き下ろす冷たい北風から大切な火を守るための工夫だったのか。あるいは、南側の呉方面から急な坂を息を切らして登ってくる旅人を真っ先に出迎えるためだったのか。

確かな理由は当時の人のみぞ知るところだが、そんな小さな細工を眺めていると、かつてこの道を行き交った人々の姿や、それを思いやる静かなストーリーが実像をもって浮かび上がってくる。

常夜灯の向かいに六角堂

常夜灯のすぐ向かいには「六角堂」というお堂がぽつんと建っている。
何が祭られているのかうかがい知ることはできないが、旅人の往来安全を祈願してのものだろう。
冬時期には入口の階段も落ち葉に埋め尽くされていたが、決してほっとかれているわけでもなく、しっかりと維持管理されているように見える。

不便さを知ることで気づく、今のありがたみ

現代の生活は本当に便利になった。
ボタン一つで部屋は明るくなり(何ならボタンすら押さないことも)、車に乗れば快適な温度のまま目的地へ着く。

しかし、こうしてかつての不便で過酷な旧街道の歴史に触れ、常夜灯を見つめていると、「今の当たり前の便利さは、先人たちの途方もない苦労の上に成り立っているのだ」と、静かな感謝の念が湧いてくる。地域の歴史を知ることで、いつもの風景が少しだけ違って見えてくる。旅の面白さは、そんな何気ない発見にあるのかも。

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いつか消えてしまう、あの日の思い出。尾道・向島「後藤鉱泉所」で瓶サイダーを飲むということhttps://tabi-sampo.com/gotokousenjo/453/https://tabi-sampo.com/gotokousenjo/453/#respondSat, 21 Mar 2026 21:59:34 +0000https://tabi-sampo.com/?p=453

毎日PCの画面とにらめっこ。仕事でも私生活でも効率とコスパばかりを追い求め、求められ、ふと息が詰まりそうになる。 少しお疲れ気味の我々に、心の湯治場のような場所がある。広島県尾道市から渡船に揺られて数分。向島(むかいしま ... ]]>

毎日PCの画面とにらめっこ。仕事でも私生活でも効率とコスパばかりを追い求め、求められ、ふと息が詰まりそうになる。

少しお疲れ気味の我々に、心の湯治場のような場所がある。
広島県尾道市から渡船に揺られて数分。向島(むかいしま)の細い路地裏にひっそりと佇む「後藤鉱泉所」。

ここには、我々がとうの昔に置き忘れてきた「あの頃」が、手つかずのまま残っている。

記憶の中の「母方の実家」がそこにある

店先に足を踏み入れた瞬間、ふわりと包み込まれるような感覚に陥る。
子どもの頃、たまに帰省する母方の実家。
同じく個人商店だったこともあり、あのひんやりとした広い土間には何か既視感がある。
祖母が「よく来たね」と笑って温かく歓迎されている感覚。

思い浮かべる景色は人の数だけあるだろう。
後藤鉱泉所には、そんな不思議な引力がある。
昭和5年(1930年)の創業から変わらないというその佇まいは、ただ古いだけでなく、長年人々に愛されてきた血の通った温もりがあるのだ。

瓶だからこそ味わえる、あの「重み」と「口当たり」

冷蔵庫から取り出された「マルゴサイダー」。
今時珍しい、昔ながらのガラス瓶。
手に取ると、ペットボトルにはない、ずっしりとした確かな「重量感」がある。
そして、キンキンに冷やされた硬いガラスの「質感」。

栓を抜き、口に運ぶ。 分厚く滑らかなガラスの飲み口から流れ込んでくるサイダーは、強めの炭酸とすっきりとした甘さが弾け、たまらなく旨い。いや、ペットボトルや缶で飲むのとは「口当たりの良さ」が全く違うのだ。

昔のジュースって、みんなこうやって瓶の重みを感じながら飲んでいたっけか。便利さと引き換えに、我々はこういう些細だけど豊かな感覚を手放してしまったのかもしれない。

ここで飲む。その体験こそが最高のスパイス

実はこのサイダー、持ち帰りができない。
理由はシンプルで、このリターナブル瓶がすでに製造されておらず、回収して使い回さなければならないからだ。

だから、客はこの土間で、店主と他愛のない言葉を交わしながら飲み干すことになる。でも、それがいい。

この空間で味わうノスタルジー。昭和初期から脈々と守られてきた製法。そして何より、一度は途絶えかけたこの場所を「地域の宝だから」と、安定した公務員を辞めてまで継ぐ決意をした4代目・森本さんの熱い思い。

それらすべてが最高のスパイスとなって、サイダーの味を格別なものにしてくれる。ただ喉の渇きを潤すのではない、心まで満たされるような特別な一杯になるのだ。

「いつまでも、あると思うな」の現実

ただ、感傷に浸ってばかりもいられない現実もある。

先ほど触れた貴重なリターナブル瓶は、丁寧に扱っていても、洗浄や瓶詰めの工程でどうしてもいくつかは破損してしまうという。つまり、物理的に「じり貧」状態なのだ。
さらに、裏で稼働している製造機器はなんと70年前の年代物。還暦をとうに過ぎている。修理を重ねて騙し騙し使っているものの、いつ動かなくなってもおかしくない。

つい、「いつでもそこにあるもの」だと思ってしまいがちだ。けれど、この後藤鉱泉所の景色は、いつまでも永遠に続くものじゃない。瓶が尽きるか、機械が寿命を迎えるか。そう遠くない未来に、この幻のような時間は終わりを迎えるかもしれない。

だからこそ、今、行く意味がある。

効率ばかりの毎日に少し疲れてしまったら、向島へ。あの頃の思い出と、確かな重みを持った瓶サイダーが、少しだけ不器用な僕らを、土間で静かに待ってくれている。

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【広島・呉】銭神岩の帰りに。飾らない食堂「レストラン城山」の定食に心救われるhttps://tabi-sampo.com/shiroyama/442/https://tabi-sampo.com/shiroyama/442/#respondFri, 13 Mar 2026 23:09:47 +0000https://tabi-sampo.com/?p=442

巨石「銭神岩」でちゃっかりご利益を祈願した帰り道。ちょうどお腹も空いてきた頃合いで、ふらっと立ち寄ったのが「レストラン城山」。 名前に「レストラン」と冠してはいるものの、扉を開ければそこは「食堂」やどこかの合宿所と言った ... ]]>

巨石「銭神岩」でちゃっかりご利益を祈願した帰り道。
ちょうどお腹も空いてきた頃合いで、ふらっと立ち寄ったのが「レストラン城山」。

【広島・呉】野呂山の麓に潜む巨石「銭神岩」。さぁ宝くじを買いに行こう

名前に「レストラン」と冠してはいるものの、扉を開ければそこは「食堂」やどこかの合宿所と言ったほうがしっくりくる雰囲気。お客さんが少ない時間帯だったせいか、BGM代わりに流れるテレビの音が妙に心地いい。飾らない、けれど清潔。なんだか学生時代にタイムスリップしたような、あるいは田舎に帰ってきたような、胸の奥がキュッとなる懐かしさ。

こういう場所、ひとり飯にはたまらなく落ち着く。

ツッコミどころもご愛嬌。メニュー選びの葛藤

メニューは丼もの、麺類、定食と、食堂に求めるレギュラー陣がひととおり揃っている。
ただ、じっくり眺めていると、いろいろとツッコミを入れたくなってくる。

  • ラーメンの単品は無いのか?(ご飯必須?)
  • 丼ものでセットにできるのは天丼だけ?(というか単品不可?)
  • そもそも、どこかに別のメニュー表があるのかも・・・

頭の中に「?」が浮かぶが、まあ細かいことは気にしない。こういう大雑把なところも、ひっくるめて愛嬌だ。

おすすめは呉ならではの「海自カレー」らしい。船によって味が違うそうで、ここは「輸送艦くにさき」のカレーが食べられるとのこと。
しかも、全体的に街中の相場より2割くらい安く感じる。財布の紐が硬くなりがちなこのご時世、公営の施設とはいえ、一体どういう採算の取り方をしているのだろうかと余計な心配をしてしまう。

2026年現在で740円。謎の安定感を誇る「季節の和定食」

迷った末に、今回は「季節の和定食(740円)」の食券を購入。 厨房に食券を渡すと、「ごはんの量はどうしますか?」と聞いてくれる。さらに特定の定食はお汁のお代わり自由という気前の良さ。こういう懐の深さは居心地の良さに直結する気がする。

運ばれてきた定食は、決して派手さがあるわけではない。
だが、謎の安定感がある。

  • ごはん(写真は「多め」)
  • 味噌汁
  • 香の物
  • 小鉢×2
  • メイン(鶏のから揚げコチュジャン和え)

定食としての完成度が異様に高い。
小鉢はいい意味で期待を裏切らない「ああ、これこれ」という味。メインのから揚げは辛すぎず、絶妙にごはんを泥棒していく優秀で罪なやつ。

2026年にもなって、このクオリティの定食が740円で食べられる風景は、間違いなく希少だ。

家の近くに、いや職場の近くに欲しい

こんなのを日替わりで出されたら、絶対に通いつめるのに・・・

最後の一口を飲み込みながら、ふと思う。しかし残念ながら、職場からも家からも近くない。その絶妙な距離感が、かえってこの食堂への哀愁を誘うのかもしれない。

外はまだまだ寒々しい風が吹いている。けれど、この空間では体も心も温かくしてくれる。


施設情報:レストラン城山(グリーンヒル郷原内)

銭神岩などの散策ついでに立ち寄るのにぴったりの立地。
広々とした無料駐車場があるのも、車移動がメインの大人にはありがたい。

  • 住所:広島県呉市郷原野路の里2-3-1(グリーンヒル郷原 香りの館1階)
  • 営業時間:10:00~15:00
    • お食事:11:00~14:00
    • 喫茶:10:00~15:00(L.O. 14:30)
  • 定休日:月曜日(祝日の場合は翌日休み)、年末年始
  • アクセス
    • 車:東広島呉自動車道「郷原IC」から車で約5分
    • バス:広電バス(郷原黒瀬線)「グリーンヒル郷原」バス停下車すぐ(便数極少)
  • 駐車場:あり(無料)
  • 電話番号:0823-77-1025

※営業時間や定休日は変更になる場合があるため、訪問前に念のため公式サイト等でご確認ください。

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【広島・呉】野呂山の麓に潜む巨石「銭神岩」。さぁ宝くじを買いに行こうhttps://tabi-sampo.com/zenigamiiwa/427/https://tabi-sampo.com/zenigamiiwa/427/#respondSat, 07 Mar 2026 12:44:28 +0000https://tabi-sampo.com/?p=427

最近、元気で明るい観光地には少し気後れしてしまう自分がいる。 誰かの「最高!」というテンションに合わせるのではなく、ただただ静かな場所で、一人でぼんやりと息を吐き出したい。年齢を重ねて体力・気力が落ちたせいもあるかもしれ ... ]]>

最近、元気で明るい観光地には少し気後れしてしまう自分がいる。

誰かの「最高!」というテンションに合わせるのではなく、ただただ静かな場所で、一人でぼんやりと息を吐き出したい。年齢を重ねて体力・気力が落ちたせいもあるかもしれないが、どうやら足は自然と「寂れた場所」へと向かうようになっている。

向かったのは、呉市郷原。
野呂山の広大な裾野にひっそりと鎮座する「銭神岩(ぜにがみいわ)」と呼ばれる巨石。

名前からして何かご利益がありそう。
しかしながら、きれいに舗装された参道も、おしゃれなカフェも併設されていない。そこにあるのは、人を寄せ付けないような森と、ある信仰のカタチ。

謎の情熱「火の用心」と、心細すぎる林道

目的地から少し離れたところにグリーンヒル郷原という公共施設があり、そこの駐車場から坂道を上っていくこととなる。その道中、ふと顔を上げた先、向かいの山(岩山)の頂上付近に、でかでかと「火の用心」と白文字で書かれた巨大な岩壁が見えた。

どうやら地元の有志の方々が書いたものらしい。火災は昔も今も重大なこととはいえ、戦国時代には毛利元就が攻めあぐねたという険しい山城の跡地に、わざわざ登ってあんな巨大な文字を描くとは。人間の謎の労力と情熱には本当に頭が下がる。
いまこの上り坂でさえ苦しくなる自分をどうしてくれよう。

そんなことをぼんやり考えながら進むと、やがて舗装路は途切れ、落ち葉が分厚く堆積した薄暗い林道へと変わっていった。

「本当にこの道で合っているのかな?」

遠くの方で車のエンジン音だけが不自然に響く森の中は、たった一人で訪れたいい大人の心に、十分すぎるほどの不安を植え付けてくる。熊でも出そうな寂れた気配。日常の喧騒から完全に切り離され、少し心細くなってきたその時、森の緑と同化しかけた風景の中に、突如として鮮やかな朱色の鳥居が姿を現した。

1億年の圧倒的な質量を前にして

鳥居の先に待ち受けていたのは、立派な社殿などではない。
見上げるほど巨大な、一枚の岩の壁。

写真ではなかなか伝わりきらない、のしかかってくるような圧倒的な質量。地質学的に言えば、白亜紀末期、約1億年前の火山活動で形成された「流紋岩」というものらしい。岩肌に刻まれた流れるような模様は、マグマが冷えて固まった地球の記憶。

古代の人々が、この規格外の自然物に神が宿る「磐座(いわくら)」だと畏れを抱いたのもよくわかる。
そこには、宗教の小難しい理屈など必要なく、ただただ純粋な自然への畏怖と、張り詰めたような静寂だけが存在していた。

1億年という途方もない時間を微動だにせず過ごしてきた巨石を前にすると、昨日の仕事の小さなミス、ひざの痛み、肩こりが治らないといった自分の日々の悩みが、ひどくちっぽけなものに思えてくる。

黄金の鶏と宝くじ。俗っぽさもまた、信仰のありかた。

ところで、なぜこの厳かな巨石が「銭神」などという、いささか生々しい名前で呼ばれているのか。

背景には、この地に眠る「正月に黄金の鶏が鳴く」という金鶏伝説や、平家の落武者が隠れ住んだという伝承があるらしい。要するに、歴史の動乱の中で「ここに莫大な富(銭)が隠されているのではないか」という人々の期待や妄想が、もともとの磐座信仰に重ね合わさっていったのだろうか。

「宝くじが当たりますように」

現在では宝くじ祈願のスポットとしても認知されているご様子。
1億年の歴史を持つ荘厳な巨石にすがりつき、願うことは今も昔も「お金」なのだ。

永遠のように変わらない無機質な自然と、そこにまとわりつく、ちっぽけで生々しい人間の「金運」への執着。この見事なまでのコントラストがまた良い。

昔の人も今の自分たちも、考えることの本質は大して変わらないのではないか。

少々俗っぽくはあるけれど、そんな人間の弱さや欲深さを、文句も言わずに静かに受け止めてきたこの巨石の度量こそが、日本の土着信仰のリアルな姿なのだろう。
私も帰り際に「少しでもお給金が増えますように」と手を合わせておいた。当然だ。

ひんやりとした森の空気を胸いっぱいに吸い込み、再び落ち葉を踏みしめて、騒がしい日常へと戻る。

誰もいない静寂の森で、永遠の時間と人間のちっぽけな欲望の交差点に立つ。
そんな孤独な休日も嫌いじゃないです。

【広島・呉】銭神岩の帰りに。飾らない食堂「レストラン城山」の定食に心救われる ]]>
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眩い光が落とした濃い影。世界遺産『三池炭鉱|宮原坑』の地底で命を削った者たちの記憶https://tabi-sampo.com/miiketankou_2/387/https://tabi-sampo.com/miiketankou_2/387/#respondFri, 27 Feb 2026 21:50:11 +0000https://tabi-sampo.com/?p=387

福岡県大牟田市ののどかな風景のなかに、突如としてそびえ立つ巨大な鋼鉄の櫓(やぐら)と赤レンガの建造物。ここは、2015年に世界文化遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」の構成資産の一つであり、かつて日本の近代化を猛ス ... ]]>

福岡県大牟田市ののどかな風景のなかに、突如としてそびえ立つ巨大な鋼鉄の櫓(やぐら)と赤レンガの建造物。
ここは、2015年に世界文化遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」の構成資産の一つであり、かつて日本の近代化を猛スピードで牽引した三池炭鉱・宮原坑(みやのはらこう)。

明治から大正にかけて、年間40万〜50万トンもの「黒いダイヤ(石炭)」を地底から汲み上げたこの場所は、製鉄所の火を燃やし、蒸気機関車を走らせた、間違いなく国を動かす「心臓部」だった。

【世界遺産】静寂の底に眠る熱狂。『宮原坑』で日本の近代化を牽引した鋼鉄の記憶【福岡大牟田】

しかし、その巨大な鋼鉄の櫓の真下、太陽の光が一切届かない数百メートルの地底では、一体何が起きていたのか。

国を挙げた華やかな経済成長の裏には、同時に大きな「影」が存在する。
今回は、宮原坑が「修羅坑」と恐れられた理由や、日本の豊かな未来のために文字通り命を削った名もなき人々、そして動物たちの知られざる真実ついて。

地底の階級社会。恐れられた「修羅坑」と坑内馬の悲劇

明治の初め、過酷な炭鉱労働を強いられたのは「囚人」だった。
1883年に政府直轄の監獄「三池集治監」が設置されると、西日本一帯の重罪犯が三池集治監へ集められ、そこから宮原坑などへ送られた。

気温32度、湿度100%
息をするのも苦しい漆黒の闇のなか、彼らは足に鎖を繋がれたまま1日12時間もの重労働を強いられた。
過酷な環境下での死亡率は極めて高く、引き取り手のない遺体は番号だけが刻まれた墓に葬られ、時には井戸へ投げ込まれることもあったという。
宮原坑は、そのあまりの凄惨さからいつしか「修羅坑」と呼ばれるようになった。

そして、この地底には囚人よりもさらに下の階級として扱われた存在がいた。
炭車を引くための「坑内馬」。

天井の低い坑内で使役された対州馬などの小型馬には、単なる労働力ではなく、「囚人の不満を逸らすための見せしめ」というあまりにも残酷な役割が与えられていた。
仏教の「六道」になぞらえ、修羅道(囚人)の下にある畜生道(馬)として、囚人たちの鬱憤の捌け口として打ち叩かれたのだった。
一度坑底へ下ろされた馬たちは、二度と地上の光を見ることはない。
過酷な労働と極限のストレスにより、8年間で体高が平均4cmも縮んでしまったという痛ましい記録も残されている。

坑内馬(イメージ)

「黒いダイヤ」を掘り出した重層的な差別と搾取

炭鉱という閉鎖空間には、人為的に作られた歪な差別構造が蔓延していました。

1899年以降、天災と飢饉に苦しむ鹿児島県の与論島から多くの人々が移住してきましたが、彼らを待っていたのは地元民からの激しい蔑視と、賃金を7割に据え置かれるという露骨な差別でした。

さらに戦時中になると、労働力不足を補うために朝鮮半島や中国からの強制連行が行われ、連合軍の捕虜までもが投入されました。「機械の代わり」として酷使された彼らは、飢餓寸前の食糧事情のなかで私刑(リンチ)に晒され、動けなくなればバラックの隅に捨てられるという、およそ人間扱いとは言えない悲惨な境遇に置かれたのです。

不治の病「塵肺(じんぱい)」の恐怖

地底の脅威は、落盤やガス爆発などの直接的な事故だけではない。暗黒の坑内に常に舞い散る細かい炭塵(石炭の粉)。坑夫たちはそれを長年にわたって吸い込み続けることで、肺が真っ黒に石灰化していく「塵肺」という不治の病に蝕まれた。息を吸うことすら困難になるこの病は、閉山から数十年が経った今でも、かつて日本の屋台骨を支えた元炭鉱マンたちを静かに、そして確実に苦しめ続けている。

戦後最悪の悲劇「三川坑炭塵爆発」と、街を引き裂いた争議

時代が下り、戦後の日本が高度経済成長へと突き進むなかでも、悲劇は終わらない。

1959年から1960年にかけて、石炭から石油への「エネルギー革命」の波が押し寄せる中、大規模な指名解雇に反対した労働者たちは、全国から10万人規模の支援を集め、「総資本対総労働の激突」と呼ばれる激しい労働争議(三池争議)を繰り広げた。

この闘争の最も悲しい側面は、長引く対立がコミュニティを根底から破壊してしまったことだろう。
会社側を容認する「第二組合」が結成されると、労働者たちは真っ二つに分裂。昨日まで肩を組んでいた隣人同士が口を利かなくなり、子供たちの間でも親の組合を理由としたいじめが起きた。ついには組合員が刺殺される事件まで発生し、大牟田の街には決して消えない深い亀裂が刻まれた。

そして争議の敗北と大規模な人員削減(合理化)の爪痕は、最悪の形で牙を剥く。
1963年(昭和38年)、保安要員が削られた坑内で「三川坑炭塵爆発事故」が発生。死者458名、一酸化炭素(CO)中毒患者839名という戦後最悪の惨事となった。会社側の救護体制の不備も重なり、助かるはずだった多くの命が失われ、生き残った人々も重い後遺症に苦しみながら長い法廷闘争を戦い抜くことになる。

時代の終焉。100年の熱狂が静寂に帰した「閉山」の日

激しい労働争議や未曾有の大事故という深い傷を抱えながらも、三池炭鉱は日本の屋台骨を支えるという使命感のもと、新たな坑口を開発しながら採炭を続けていた。

実は、この記事で取り上げた宮原坑自体は、昭和初期の1931年(昭和6年)には石炭を掘り出す「主力坑」としての役目を終えている。しかしその後も、地下で繋がる他の坑道を守るため、あの巨大メカニズム「デービーポンプ」などを駆使して、ひたすらに地下水を汲み上げる「心臓」として稼働し続けていた。

しかし、「安価な中東の石油」へと完全にシフトした時代の巨大なうねりに抗うことはできない。

1997年(平成9年)3月30日。 かつて全国から人と金を集め、国を挙げて熱狂した三池炭鉱は、ついに完全なる「閉山」の日を迎える。明治の官営時代から100年以上にわたり、日本の近代化を力強く推し進めてきた巨大なネットワークが、静かにその鼓動を止めた瞬間。

閉山によってすべての排水ポンプが停止された現在。囚人たちが鎖を引きずり、馬たちが鞭打たれ、名もなき労働者たちが泥と汗に塗れた総延長数百キロにも及ぶ巨大な地底空間は、冷たい地下水にすっかり呑み込まれた。かつての喧騒は嘘のように消え去り、今は誰も足を踏み入れることのできない、永遠の静寂の中に沈んでいる。

鋼鉄の櫓を「墓標」として見上げる

世界遺産として美しく保存された赤レンガの建造物や、青空にそびえ立つ宮原坑の巨大な鋼鉄製の櫓。

しかし、この地底で起きた真実を知った今、その風景は少し違った色を帯びて見えてくる。重厚なインフラの残骸は、日本の近代化を成し遂げた輝かしい「記念碑」であると同時に、泥と汗に塗れ、絶望のなかで命を落としていった労働者たちや、地底で生涯を終えた馬たちへの「鎮魂の墓標」でもある。

私たちが当たり前のように享受している現代の豊かな社会。その足元の奥深くには、彼らの無言の犠牲が埋まっている。
そのことをしっかりと胸にとどめ、「ありがたい」といつまでも思える人間でありたい。

光が強ければ強いほど、その影は濃く、深い。
大牟田の石炭遺産を訪れる際は、ぜひ華やかな歴史の裏側に思いを馳せ、そっと目を閉じて。冷たい水底から聞こえてくる無数の叫びと祈りが、あなたの心に深く、静かな余韻を残してくれるはずです。

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歴史を旅に落とし込む

地域にはそれぞれが歩んできた歴史がある。
それは大変に壮大なものから一個人から見るとちっぽけなものまで、それでも必ずそこに歴史はある。その一つ一つを自身の旅に落とし込むと、人生を何重にも経験したようなそんな満足感のある旅を体験することができる。

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【世界遺産】静寂の底に眠る熱狂。『宮原坑』で日本の近代化を牽引した鋼鉄の記憶【福岡大牟田】https://tabi-sampo.com/miiketankou_1/383/https://tabi-sampo.com/miiketankou_1/383/#respondSun, 22 Feb 2026 06:27:22 +0000https://tabi-sampo.com/?p=383

福岡県大牟田市。のどかな住宅街を歩いていると、突如として天を突くような巨大な鋼鉄の櫓(やぐら)と、重厚な赤レンガの建造物が姿を現す。 現在では鳥のさえずりが響き渡る静かなこの場所だが、かつてここは、日本という国が近代化へ ... ]]>

福岡県大牟田市。
のどかな住宅街を歩いていると、突如として天を突くような巨大な鋼鉄の櫓(やぐら)と、重厚な赤レンガの建造物が姿を現す。

現在では鳥のさえずりが響き渡る静かなこの場所だが、かつてここは、日本という国が近代化へと猛進するための「心臓部」だった。
2015年に世界文化遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」の構成資産の一つ、三池炭鉱・宮原坑(みやのはらこう)。

静寂の奥底に眠るかつての熱狂と、役目を終えた巨大インフラが放つ独特のノスタルジーに触れる。

国を動かした「黒いダイヤ」と最先端のメカニズム

明治から大正にかけて、宮原坑は三池炭鉱の主力坑として年間40万〜50万トンもの石炭を出炭していた。
ここから途方もない量の「黒いダイヤ(日本の近代化を支えるエネルギー源として、ダイヤモンドに匹敵するほどの莫大な富と価値を生み出したことから)」が地底から汲み上げられ、製鉄所の燃え盛る火となり、蒸気機関車を力強く走らせるエネルギーへと変わっていった。ここが間違いなく経済的に発展した今の「日本」を創り出していた場所であるというスケール感に、足を踏み入れた瞬間に圧倒される。

炭鉱開発における最大の敵は「地下水」。
宮原坑は、その湧水との壮絶な戦いを制するため、当時の世界最先端技術であった巨大なデービーポンプや巻揚機を導入。未知の西洋技術を貪欲に吸収し、何としてでも自国の力に変えてやろうという先人たちの凄まじい執念が、この鋼鉄の塊に詰まっている。

デービーポンプ

宮原坑をはじめとする三池炭鉱の歴史は、実は石炭を掘るだけでなく、大量の「地下水」との死闘でもあった。湧水による水没・閉山の危機に直面した当時の三井が、社運を賭けてイギリスから導入したのが、世界最大級の最新鋭排水メカ「デービーポンプ」。
巨大なボイラーの蒸気圧で鉄のロッドをピストン運動させ、地底深くの濁流を一気に地上へ汲み上げる規格外のパワー。1台の価格は現在の価値で約25億円にも相当する超高額な代物だったが、この世界最高峰のテクノロジーへの投資こそが三池炭鉱を救い、日本の近代化を推し進める原動力となった。

鋼鉄とレンガが語りかける郷愁

役目を終え、現在はコンクリートで塞がれた竪坑。風雨に晒され赤茶けたレンガと、高さ約22メートルの鈍い光を放つ現存する日本最古の鋼鉄製櫓

最盛期の喧騒は完全に消え去り、そこにあるのはただ「巨大な機械が静かに眠っている」という情景。

一つの国を急成長させるという途方もない使命を背負い、ただひたすらに地下からエネルギーを汲み上げ続けた宮原坑。その使命を全うしてひっそりと佇む現在の姿には、廃墟のもつ物悲しさというよりも、「大仕事を成し遂げた後の、安らかな休息」のような穏やかな佇まいが漂っている。

私たちが当たり前のように享受している現代の豊かさは、この静かな鉄の塊が燃やした命の延長線上にある。
そう考えると、錆びた鉄柱の一つひとつがひどく愛おしく、美しいものに見えてくるから不思議だ。

息づく遺構

宮原坑の魅力は、ただ外観を眺めるだけにとどまらない。
赤レンガの巻揚機室に一歩足を踏み入れると、今でも微かに機械油の匂いが鼻をかすめ、つい昨日まで稼働していたかのように保存されている巨大なドラムを前にすると、当時の息遣いがそのまま保存されたタイムカプセルを開けたような感覚に陥る。

現地では、元炭鉱マンも在籍するというボランティアガイドの方々が、血の通った生々しいエピソードを語ってくれる。そして運が良ければ、ガイドさんがふと「炭坑節」を口ずさんでくれることもあるとのこと。

「月がぁ〜、出た出たぁ〜」

張りのある声が赤レンガの壁に反響するとき、かつてこの地で汗に塗れて働いていた無数の人々の姿が、陽炎のように浮かび上がる。なんともエモい瞬間に立ち会うことができる。

地底で繋がる巨大ネットワーク。もう一つの記憶「宮浦坑」へ

宮原坑の敷地に立っていると、ここが一つの独立した施設のように思えるが、実はそうではない。大牟田の地下には、各坑口から伸びた坑道が網の目のように張り巡らされ、広大な地底空間で繋がっていた。

江戸時代、三池藩と柳川藩がそれぞれの領地の坑口から掘り進めていたところ、地底で両者が開通して鉢合わせしてしまい、境界争いが勃発したというエピソードが残っているほどだ。

そんな途方もないスケールの地底ネットワークを実感できるのが、宮原坑からほど近い「宮浦石炭記念公園(宮浦坑跡)」。

昭和43年まで稼働したこの場所には、高さ31.2メートルにも及ぶ巨大な赤レンガの排煙用煙突が当時のままそびえ立っている。園内には、斜めに掘り進められた「大斜坑」や、労働者たちが地底へと向かった「人車プラットホーム」が復元展示されている。

宮原坑の真っ直ぐに下りる竪坑とは違い、斜め地下へと吸い込まれていくような斜坑の入り口に立つと、見えない地底で宮原坑とも繋がっていた巨大な空間の広がりを感じずにはいられない。先人たちがどのような想いでこの暗闇の先へと歩を進めたのか、彼らの重い足音が聞こえてくるような不思議な錯覚を覚える。

おわりに

大牟田の地に静かに佇む石炭遺産たち。
そこはただの古い廃墟ではなく、近代日本ががむしゃらに駆け抜けた青春期の熱気と、大仕事を終えた後の穏やかな余韻を同時に味わえる特別な空間だ。

しかし、あの薄暗い斜坑の入り口から、何百メートルという地底の奥深くへ下りていったのは、果たしてどんな人々だったのだろうか。

眩しいほどの近代化の「光」が落とした、知られざる「濃い影」の部分。暗闇のなか泥と汗に塗れた坑夫たち、過酷な労働を強いられた囚人、二度と太陽の光を見ることなく散っていった坑内馬、そして朝鮮半島や中国から動員された人々。

華やかな経済成長と私たちが享受する豊かな日常は、地底で無言のまま命を削った彼らの土台の上に成り立っている。決して目を背けてはならない真実を知ることで、この鉄とレンガの遺産たちは、より一層の重みを持って心に響いてくるだろう。

大牟田市役所
眩い光が落とした濃い影。世界遺産『三池炭鉱|宮原坑』の地底で命を削った者たちの記憶 ]]>
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【呉市・二級峡】美しい渓谷と、軍都の渇きを癒やした「海軍ダム」の記憶https://tabi-sampo.com/nikyukyo/363/https://tabi-sampo.com/nikyukyo/363/#respondSun, 15 Feb 2026 00:35:33 +0000https://tabi-sampo.com/?p=363

呉市の中心部から少し離れた場所に、奇妙なほど静まり返った渓谷がある。「二級峡(にきゅうきょう)」。 名前だけ聞くと「一級じゃないのか」なんて軽口を叩きたくなるが、目の前に広がる景色は、そんな冗談を許さないほどの迫力と、あ ... ]]>

呉市の中心部から少し離れた場所に、奇妙なほど静まり返った渓谷がある。
二級峡(にきゅうきょう)」。

名前だけ聞くと「一級じゃないのか」なんて軽口を叩きたくなるが、目の前に広がる景色は、そんな冗談を許さないほどの迫力と、ある種の「凄み」を持っている。

しかし、かつては多くの観光客で賑わったこの場所も、今は訪れる人の姿はまばら。
聞こえてくるのは、黒瀬川の水音と、風が木々を揺らす音だけ。

「寂れている」と言えばそれまでだが、この静寂こそが何よりの贅沢に思える。
ここは、賑やかな観光地にはない「影」と、深い「歴史」を独り占めできる場所。

流された「赤い橋」と、置き去りにされた絶景

二級峡を訪れて最初に気づくのは、ある種の「欠落」。

かつて、この渓谷のシンボルとして、天然記念物の「甌穴(おうけつ)群」を見下ろすことのできる赤い吊り橋(甌穴橋)がかかっていた。しかし、2018年(平成30年)の西日本豪雨。あの未曾有の災害で、橋は濁流に飲み込まれ、流失した。

通路には簡易的なロープが張られている

あれから数年が経つが、橋は復旧していない。
対岸へ渡る術は失われ、かつて橋の上から眺められた絶景ポイントも今はもうない。

橋が落ちて以来、客足は明らかに遠のいたという。
だが、皮肉なことに、そのおかげでこの渓谷は本来の「自然の姿」を取り戻したようにも見える。

整備された遊歩道を行き交う観光客の列も、自撮り棒を持った集団もいない。
橋脚の跡という「災害の爪痕」を眺めながら、ただ一人、自然の猛威と無常観に浸る。
そんな過ごし方ができるのは、今の二級峡だからこそ。

橋は完全になくなり、その痕跡がひっそりと残っている

誰にも邪魔されず、海軍の「焦り」と対峙する

静寂の中、渓谷を遡ると、木々の隙間から巨大なコンクリートの塊がぬっと姿を現す。
「二級ダム」。

人の気配がない分、このダムが放つ異様な存在感(プレッシャー)が、肌に直接伝わってくる。
無骨なコンクリートの素肌は、ここがただの治水施設ではないことを無言で訴えているようだ。

完成は1942年(昭和17年)。
戦況が悪化の転じた年、太平洋戦争の真っ只中。

当時、「東洋一の軍港」と呼ばれた呉は、深刻な渇きに喘いでいた。
戦艦大和を建造し、航空機や砲弾を量産し続ける海軍工廠。
鉄を冷やし、動力を生むためには、莫大な量の「水」が必要だったからだ。
さらに、職工や軍属が全国から集まったことで、呉市の人口は40万人を超え(現在の約2倍)、飲み水さえ満足に確保できない極限状態にあった。

「水を送れ。一刻も早く」 それは要請ではなく、海軍からの至上命令だった。

水が止まれば工廠が止まる。工廠が止まれば、戦争に負ける。
そんな狂気じみたプレッシャーの中、ダム建設は始まった。

本来なら数年はかかる難工事。しかし、現場に与えられた時間はあまりに短かった。
1941年に周辺の道路整備が始まると、そこからは時間との戦いだった。工事の詳細な記録はのちの空襲ですべて焼失してしまったが、翌1942年には早くも竣工。
実質1年強という、現代の常識では考えられないスピードでこの巨大な壁は築かれた。

夜の渓谷に照明が焚かれ、ツルハシとダイナマイトの音が24時間響き渡る。
重機も十分にない時代、頼りになったのは「人」の力。
数百人規模の労働者が動員され、この険しいV字谷に挑んだという。
足を踏み外せば命はない。それでも、手を休めることは許されなかった。

驚異的なスピードで完成したこのコンクリートの壁は、当時の技術者と労働者たちが、国のために命を削って積み上げた「焦燥」と「執念」の結晶そのもの。

戦後、このダムは軍のための水から、市民のための「命の水」へとその役割を変えた。
長らく呉市の「水がめ」として親しまれてきたが、それも1997年(平成9年)に終わりを迎える。
上流の宅地開発に伴う水質の悪化が、皮肉にもこの巨大な建造物を「飲料水の供給」という大役から解放したのだった。

80年以上の時を経て、ダムは今も満々と水を湛えている。 誰もいない静かな森でこの堰堤を見上げていると、かつてここで響いていたであろう男たちの怒号や、岩を砕く音が、ふと耳元をかすめるような気がする。

「何もしない」をしに行く

今の二級峡には、派手な売店もなければ、映えるフォトスポットもない。
あるのは、崩落した橋の跡と、ダム、そして美しい甌穴。

だが、それがいい。
缶コーヒー片手に遊歩道の脇に腰を下ろしてみる。
目の前にあるのは、数万年かけて削られた岩と、数年前に壊された橋、そして80年前に造られたダム。

異なる時間の流れが交錯するこの場所で、ただぼんやりと時間を過ごす。
それは、多忙な現代を生きる人々にとって、最高に贅沢な休日ではないだろうか。

華やかな観光地にはもう疲れた。そんなあなたにこそ、この少し寂しくて、とてつもなく深い渓谷を訪れてほしい。

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美しくも切ない、東広島市「吾妻子の滝」。母の祈りと、現代を生きる水。https://tabi-sampo.com/azumakonotaki/348/https://tabi-sampo.com/azumakonotaki/348/#respondSat, 07 Feb 2026 00:01:38 +0000https://tabi-sampo.com/?p=348

1. 住宅地の一角にある、大きな段差と滝 東広島市西条町御薗宇スーパーや住宅が並ぶエリアを歩いていると、ふとした瞬間に水の音が聞こえてくる。 住宅地のすぐそばにあるのが、「吾妻子の滝(あづまこのたき)」。西条盆地の標高差 ... ]]>

1. 住宅地の一角にある、大きな段差と滝

東広島市西条町御薗宇
スーパーや住宅が並ぶエリアを歩いていると、ふとした瞬間に水の音が聞こえてくる。

住宅地のすぐそばにあるのが、「吾妻子の滝(あづまこのたき)」
西条盆地の標高差が生み出したこの場所は、周囲の街並みの中に、自然の地形がそのまま残っているような不思議な雰囲気を持っている。
街の喧騒から少し離れて、静かに水音を眺めることができる場所。

2. 岩の階段を刻む、幾筋もの白き流れ

この滝の特徴は、垂直に落ちるのではなく、巨大な花崗岩が幾重にも重なった階段状の岩肌を流れ落ちる点。
36メートルもの幅がある岩盤の上を、水は岩の隙間を縫うようにして、幾筋にも分かれて駆け下りていく。
ゴツゴツとした岩の質感と、その上を滑るように進む水の白さ。
そのコントラストは、まるで長い年月をかけて自然が刻んだ彫刻のよう。

市街地にあるとは思えないほど豊かな自然に囲まれており、かつてはこの水力を利用して酒造会社「白牡丹」が酒米を精白していた「白牡丹精米臼場趾」の石碑も残るなど、地域の産業とも密接に関わってきた。


3. 歴史の記録:源頼政の敗北と「吾妻子」の由来

吾妻子の滝という名は、平安時代末期の動乱期に端を発す。

  • 源頼政の挙兵と敗北
    治承4年(1180年)、源頼政は以仁王を奉じて平家打倒の兵を挙げましたが、宇治川の戦いで敗れ自刃。この際、頼政の側室であった菖蒲の前(あやめのまえ)は、家臣を伴い、当時3歳であった息子の種若丸(たねわかまる)を連れて、安芸国賀茂郡御薗宇の地へと逃れた。
  • 種若丸の没後と改名
    長旅の過酷さから、種若丸はこの地で病に倒れ、幼くしてこの世を去る。かつて「千尋(ちひろ)の滝」と呼ばれていたこの地で、菖蒲の前は亡き子を想い、和歌を詠みました。
     吾妻子や 千尋の滝のあればこそ 広き野原の 末をみるらん
    ここで吾妻子とは「我が愛しき子」の意味を持っている。
    この言葉にちなみ、以降この滝は「吾妻子の滝」と呼ばれるようになったと伝えられている。
  • 現存する史跡
    滝の西側には吾妻子観音堂が建立されており、堂内には種若丸の墓と伝えられる宝篋印塔(ほうきょういんとう)が安置されている。

4. 時代の変遷:軍港を支えた「三永水源地」

一方、昭和の時代に入ると、滝を取り巻く環境は大きく変化。
滝のすぐ上流に建設された「三永水源地(みながすいげんち)」
昭和18年に完成したこの施設は、もともと軍港都市・呉市の飲料水を確保するために作られたものだった。

この巨大な貯水池の完成により、滝に流れ込む水量は管理され、かつてのような豪快な姿からは形を変えることとなった。
しかし、それは「個人の悲恋を語る水」から、「数万人の命を繋ぐ水」へと役割を広げた瞬間でもある。
現在も呉市水道局が管理し、工業用水として人々の暮らしを支え続けている。

5. 清濁を併せ呑む、現代の「命」の姿

いま、我々はこの滝をどのような目で見つめるべきか。

滝の上流には発展を続ける西条の市街地があり、豊かな暮らしが広がっている。
だが、滝の下流に目を向けると、岩陰に溜まった生活ごみがふと目に入ることがある。
街が便利になり、私たちの生活が豊かになる一方で、その「影」が、菖蒲の前が愛した地を静かに侵食している。
その光景を前にすると、なんともいたたまれない気持ちになる。

「命」とは、清らかな流れだけではないのかもしれない。
誰かを想う純粋な涙もあれば、人間の営みが生み出した汚れもある。
そのすべてを引き受け、淀みながらも止まらずに流れ続ける川の姿こそが、現代における私たちの「命」の投影といえる。

最後に

吾妻子の滝を訪れる時、ただ美しい景色を眺めるだけでなく、この水が運ぶ「命の重み」を五感で受け止めてはいかがだろうか。
そこには菖蒲の前の祈りと、先人たちの知恵、そして私たちが向き合うべき現代の課題が、一つの流れとなって溶け合っている。

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