1. 住宅地の一角にある、大きな段差と滝
東広島市西条町御薗宇
スーパーや住宅が並ぶエリアを歩いていると、ふとした瞬間に水の音が聞こえてくる。
住宅地のすぐそばにあるのが、「吾妻子の滝(あづまこのたき)」。
西条盆地の標高差が生み出したこの場所は、周囲の街並みの中に、自然の地形がそのまま残っているような不思議な雰囲気を持っている。
街の喧騒から少し離れて、静かに水音を眺めることができる場所。
2. 岩の階段を刻む、幾筋もの白き流れ

この滝の特徴は、垂直に落ちるのではなく、巨大な花崗岩が幾重にも重なった階段状の岩肌を流れ落ちる点。
36メートルもの幅がある岩盤の上を、水は岩の隙間を縫うようにして、幾筋にも分かれて駆け下りていく。
ゴツゴツとした岩の質感と、その上を滑るように進む水の白さ。
そのコントラストは、まるで長い年月をかけて自然が刻んだ彫刻のよう。
市街地にあるとは思えないほど豊かな自然に囲まれており、かつてはこの水力を利用して酒造会社「白牡丹」が酒米を精白していた「白牡丹精米臼場趾」の石碑も残るなど、地域の産業とも密接に関わってきた。
3. 歴史の記録:源頼政の敗北と「吾妻子」の由来
吾妻子の滝という名は、平安時代末期の動乱期に端を発す。
- 源頼政の挙兵と敗北
治承4年(1180年)、源頼政は以仁王を奉じて平家打倒の兵を挙げましたが、宇治川の戦いで敗れ自刃。この際、頼政の側室であった菖蒲の前(あやめのまえ)は、家臣を伴い、当時3歳であった息子の種若丸(たねわかまる)を連れて、安芸国賀茂郡御薗宇の地へと逃れた。 - 種若丸の没後と改名
長旅の過酷さから、種若丸はこの地で病に倒れ、幼くしてこの世を去る。かつて「千尋(ちひろ)の滝」と呼ばれていたこの地で、菖蒲の前は亡き子を想い、和歌を詠みました。
吾妻子や 千尋の滝のあればこそ 広き野原の 末をみるらん
ここで吾妻子とは「我が愛しき子」の意味を持っている。
この言葉にちなみ、以降この滝は「吾妻子の滝」と呼ばれるようになったと伝えられている。 - 現存する史跡
滝の西側には吾妻子観音堂が建立されており、堂内には種若丸の墓と伝えられる宝篋印塔(ほうきょういんとう)が安置されている。

4. 時代の変遷:軍港を支えた「三永水源地」
一方、昭和の時代に入ると、滝を取り巻く環境は大きく変化。
滝のすぐ上流に建設された「三永水源地(みながすいげんち)」。
昭和18年に完成したこの施設は、もともと軍港都市・呉市の飲料水を確保するために作られたものだった。
この巨大な貯水池の完成により、滝に流れ込む水量は管理され、かつてのような豪快な姿からは形を変えることとなった。
しかし、それは「個人の悲恋を語る水」から、「数万人の命を繋ぐ水」へと役割を広げた瞬間でもある。
現在も呉市水道局が管理し、工業用水として人々の暮らしを支え続けている。

5. 清濁を併せ呑む、現代の「命」の姿
いま、我々はこの滝をどのような目で見つめるべきか。
滝の上流には発展を続ける西条の市街地があり、豊かな暮らしが広がっている。
だが、滝の下流に目を向けると、岩陰に溜まった生活ごみがふと目に入ることがある。
街が便利になり、私たちの生活が豊かになる一方で、その「影」が、菖蒲の前が愛した地を静かに侵食している。
その光景を前にすると、なんともいたたまれない気持ちになる。

「命」とは、清らかな流れだけではないのかもしれない。
誰かを想う純粋な涙もあれば、人間の営みが生み出した汚れもある。
そのすべてを引き受け、淀みながらも止まらずに流れ続ける川の姿こそが、現代における私たちの「命」の投影といえる。
最後に
吾妻子の滝を訪れる時、ただ美しい景色を眺めるだけでなく、この水が運ぶ「命の重み」を五感で受け止めてはいかがだろうか。
そこには菖蒲の前の祈りと、先人たちの知恵、そして私たちが向き合うべき現代の課題が、一つの流れとなって溶け合っている。
たびさんぽ