毎日PCの画面とにらめっこ。仕事でも私生活でも効率とコスパばかりを追い求め、求められ、ふと息が詰まりそうになる。
少しお疲れ気味の我々に、心の湯治場のような場所がある。
広島県尾道市から渡船に揺られて数分。向島(むかいしま)の細い路地裏にひっそりと佇む「後藤鉱泉所」。
ここには、我々がとうの昔に置き忘れてきた「あの頃」が、手つかずのまま残っている。
記憶の中の「母方の実家」がそこにある

店先に足を踏み入れた瞬間、ふわりと包み込まれるような感覚に陥る。
子どもの頃、たまに帰省する母方の実家。
同じく個人商店だったこともあり、あのひんやりとした広い土間には何か既視感がある。
祖母が「よく来たね」と笑って温かく歓迎されている感覚。
思い浮かべる景色は人の数だけあるだろう。
後藤鉱泉所には、そんな不思議な引力がある。
昭和5年(1930年)の創業から変わらないというその佇まいは、ただ古いだけでなく、長年人々に愛されてきた血の通った温もりがあるのだ。
瓶だからこそ味わえる、あの「重み」と「口当たり」

冷蔵庫から取り出された「マルゴサイダー」。
今時珍しい、昔ながらのガラス瓶。
手に取ると、ペットボトルにはない、ずっしりとした確かな「重量感」がある。
そして、キンキンに冷やされた硬いガラスの「質感」。
栓を抜き、口に運ぶ。 分厚く滑らかなガラスの飲み口から流れ込んでくるサイダーは、強めの炭酸とすっきりとした甘さが弾け、たまらなく旨い。いや、ペットボトルや缶で飲むのとは「口当たりの良さ」が全く違うのだ。
昔のジュースって、みんなこうやって瓶の重みを感じながら飲んでいたっけか。便利さと引き換えに、我々はこういう些細だけど豊かな感覚を手放してしまったのかもしれない。
ここで飲む。その体験こそが最高のスパイス
実はこのサイダー、持ち帰りができない。
理由はシンプルで、このリターナブル瓶がすでに製造されておらず、回収して使い回さなければならないからだ。
だから、客はこの土間で、店主と他愛のない言葉を交わしながら飲み干すことになる。でも、それがいい。
この空間で味わうノスタルジー。昭和初期から脈々と守られてきた製法。そして何より、一度は途絶えかけたこの場所を「地域の宝だから」と、安定した公務員を辞めてまで継ぐ決意をした4代目・森本さんの熱い思い。
それらすべてが最高のスパイスとなって、サイダーの味を格別なものにしてくれる。ただ喉の渇きを潤すのではない、心まで満たされるような特別な一杯になるのだ。
「いつまでも、あると思うな」の現実
ただ、感傷に浸ってばかりもいられない現実もある。
先ほど触れた貴重なリターナブル瓶は、丁寧に扱っていても、洗浄や瓶詰めの工程でどうしてもいくつかは破損してしまうという。つまり、物理的に「じり貧」状態なのだ。
さらに、裏で稼働している製造機器はなんと70年前の年代物。還暦をとうに過ぎている。修理を重ねて騙し騙し使っているものの、いつ動かなくなってもおかしくない。
つい、「いつでもそこにあるもの」だと思ってしまいがちだ。けれど、この後藤鉱泉所の景色は、いつまでも永遠に続くものじゃない。瓶が尽きるか、機械が寿命を迎えるか。そう遠くない未来に、この幻のような時間は終わりを迎えるかもしれない。
だからこそ、今、行く意味がある。
効率ばかりの毎日に少し疲れてしまったら、向島へ。あの頃の思い出と、確かな重みを持った瓶サイダーが、少しだけ不器用な僕らを、土間で静かに待ってくれている。

たびさんぽ