さんぽするようなのんびりたび

眩い光が落とした濃い影。世界遺産『三池炭鉱|宮原坑』の地底で命を削った者たちの記憶

福岡県大牟田市ののどかな風景のなかに、突如としてそびえ立つ巨大な鋼鉄の櫓(やぐら)と赤レンガの建造物。
ここは、2015年に世界文化遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」の構成資産の一つであり、かつて日本の近代化を猛スピードで牽引した三池炭鉱・宮原坑(みやのはらこう)。

明治から大正にかけて、年間40万〜50万トンもの「黒いダイヤ(石炭)」を地底から汲み上げたこの場所は、製鉄所の火を燃やし、蒸気機関車を走らせた、間違いなく国を動かす「心臓部」だった。

【世界遺産】静寂の底に眠る熱狂。『宮原坑』で日本の近代化を牽引した鋼鉄の記憶【福岡大牟田】

しかし、その巨大な鋼鉄の櫓の真下、太陽の光が一切届かない数百メートルの地底では、一体何が起きていたのか。

国を挙げた華やかな経済成長の裏には、同時に大きな「影」が存在する。
今回は、宮原坑が「修羅坑」と恐れられた理由や、日本の豊かな未来のために文字通り命を削った名もなき人々、そして動物たちの知られざる真実ついて。

地底の階級社会。恐れられた「修羅坑」と坑内馬の悲劇

明治の初め、過酷な炭鉱労働を強いられたのは「囚人」だった。
1883年に政府直轄の監獄「三池集治監」が設置されると、西日本一帯の重罪犯が三池集治監へ集められ、そこから宮原坑などへ送られた。

気温32度、湿度100%
息をするのも苦しい漆黒の闇のなか、彼らは足に鎖を繋がれたまま1日12時間もの重労働を強いられた。
過酷な環境下での死亡率は極めて高く、引き取り手のない遺体は番号だけが刻まれた墓に葬られ、時には井戸へ投げ込まれることもあったという。
宮原坑は、そのあまりの凄惨さからいつしか「修羅坑」と呼ばれるようになった。

そして、この地底には囚人よりもさらに下の階級として扱われた存在がいた。
炭車を引くための「坑内馬」。

天井の低い坑内で使役された対州馬などの小型馬には、単なる労働力ではなく、「囚人の不満を逸らすための見せしめ」というあまりにも残酷な役割が与えられていた。
仏教の「六道」になぞらえ、修羅道(囚人)の下にある畜生道(馬)として、囚人たちの鬱憤の捌け口として打ち叩かれたのだった。
一度坑底へ下ろされた馬たちは、二度と地上の光を見ることはない。
過酷な労働と極限のストレスにより、8年間で体高が平均4cmも縮んでしまったという痛ましい記録も残されている。

坑内馬(イメージ)

「黒いダイヤ」を掘り出した重層的な差別と搾取

炭鉱という閉鎖空間には、人為的に作られた歪な差別構造が蔓延していました。

1899年以降、天災と飢饉に苦しむ鹿児島県の与論島から多くの人々が移住してきましたが、彼らを待っていたのは地元民からの激しい蔑視と、賃金を7割に据え置かれるという露骨な差別でした。

さらに戦時中になると、労働力不足を補うために朝鮮半島や中国からの強制連行が行われ、連合軍の捕虜までもが投入されました。「機械の代わり」として酷使された彼らは、飢餓寸前の食糧事情のなかで私刑(リンチ)に晒され、動けなくなればバラックの隅に捨てられるという、およそ人間扱いとは言えない悲惨な境遇に置かれたのです。

不治の病「塵肺(じんぱい)」の恐怖

地底の脅威は、落盤やガス爆発などの直接的な事故だけではない。暗黒の坑内に常に舞い散る細かい炭塵(石炭の粉)。坑夫たちはそれを長年にわたって吸い込み続けることで、肺が真っ黒に石灰化していく「塵肺」という不治の病に蝕まれた。息を吸うことすら困難になるこの病は、閉山から数十年が経った今でも、かつて日本の屋台骨を支えた元炭鉱マンたちを静かに、そして確実に苦しめ続けている。

戦後最悪の悲劇「三川坑炭塵爆発」と、街を引き裂いた争議

時代が下り、戦後の日本が高度経済成長へと突き進むなかでも、悲劇は終わらない。

1959年から1960年にかけて、石炭から石油への「エネルギー革命」の波が押し寄せる中、大規模な指名解雇に反対した労働者たちは、全国から10万人規模の支援を集め、「総資本対総労働の激突」と呼ばれる激しい労働争議(三池争議)を繰り広げた。

この闘争の最も悲しい側面は、長引く対立がコミュニティを根底から破壊してしまったことだろう。
会社側を容認する「第二組合」が結成されると、労働者たちは真っ二つに分裂。昨日まで肩を組んでいた隣人同士が口を利かなくなり、子供たちの間でも親の組合を理由としたいじめが起きた。ついには組合員が刺殺される事件まで発生し、大牟田の街には決して消えない深い亀裂が刻まれた。

そして争議の敗北と大規模な人員削減(合理化)の爪痕は、最悪の形で牙を剥く。
1963年(昭和38年)、保安要員が削られた坑内で「三川坑炭塵爆発事故」が発生。死者458名、一酸化炭素(CO)中毒患者839名という戦後最悪の惨事となった。会社側の救護体制の不備も重なり、助かるはずだった多くの命が失われ、生き残った人々も重い後遺症に苦しみながら長い法廷闘争を戦い抜くことになる。

時代の終焉。100年の熱狂が静寂に帰した「閉山」の日

激しい労働争議や未曾有の大事故という深い傷を抱えながらも、三池炭鉱は日本の屋台骨を支えるという使命感のもと、新たな坑口を開発しながら採炭を続けていた。

実は、この記事で取り上げた宮原坑自体は、昭和初期の1931年(昭和6年)には石炭を掘り出す「主力坑」としての役目を終えている。しかしその後も、地下で繋がる他の坑道を守るため、あの巨大メカニズム「デービーポンプ」などを駆使して、ひたすらに地下水を汲み上げる「心臓」として稼働し続けていた。

しかし、「安価な中東の石油」へと完全にシフトした時代の巨大なうねりに抗うことはできない。

1997年(平成9年)3月30日。 かつて全国から人と金を集め、国を挙げて熱狂した三池炭鉱は、ついに完全なる「閉山」の日を迎える。明治の官営時代から100年以上にわたり、日本の近代化を力強く推し進めてきた巨大なネットワークが、静かにその鼓動を止めた瞬間。

閉山によってすべての排水ポンプが停止された現在。囚人たちが鎖を引きずり、馬たちが鞭打たれ、名もなき労働者たちが泥と汗に塗れた総延長数百キロにも及ぶ巨大な地底空間は、冷たい地下水にすっかり呑み込まれた。かつての喧騒は嘘のように消え去り、今は誰も足を踏み入れることのできない、永遠の静寂の中に沈んでいる。

鋼鉄の櫓を「墓標」として見上げる

世界遺産として美しく保存された赤レンガの建造物や、青空にそびえ立つ宮原坑の巨大な鋼鉄製の櫓。

しかし、この地底で起きた真実を知った今、その風景は少し違った色を帯びて見えてくる。重厚なインフラの残骸は、日本の近代化を成し遂げた輝かしい「記念碑」であると同時に、泥と汗に塗れ、絶望のなかで命を落としていった労働者たちや、地底で生涯を終えた馬たちへの「鎮魂の墓標」でもある。

私たちが当たり前のように享受している現代の豊かな社会。その足元の奥深くには、彼らの無言の犠牲が埋まっている。
そのことをしっかりと胸にとどめ、「ありがたい」といつまでも思える人間でありたい。

光が強ければ強いほど、その影は濃く、深い。
大牟田の石炭遺産を訪れる際は、ぜひ華やかな歴史の裏側に思いを馳せ、そっと目を閉じて。冷たい水底から聞こえてくる無数の叫びと祈りが、あなたの心に深く、静かな余韻を残してくれるはずです。

三池 終わらない炭鉱の物語

ドキュメンタリー映画「三池 終わらない炭鉱の物語」が三池炭鉱を知ることにとても参考になりました
Prime会員は追加料金なしで視聴可能

Amazon.co.jp: 三池 終わらない炭鉱の物語を観る | Prime Video

歴史を旅に落とし込む

地域にはそれぞれが歩んできた歴史がある。
それは大変に壮大なものから一個人から見るとちっぽけなものまで、それでも必ずそこに歴史はある。その一つ一つを自身の旅に落とし込むと、人生を何重にも経験したようなそんな満足感のある旅を体験することができる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA



reCaptcha の認証期間が終了しました。ページを再読み込みしてください。