さんぽするようなのんびりたび

【呉市・二級峡】美しい渓谷と、軍都の渇きを癒やした「海軍ダム」の記憶

呉市の中心部から少し離れた場所に、奇妙なほど静まり返った渓谷がある。
二級峡(にきゅうきょう)」。

名前だけ聞くと「一級じゃないのか」なんて軽口を叩きたくなるが、目の前に広がる景色は、そんな冗談を許さないほどの迫力と、ある種の「凄み」を持っている。

しかし、かつては多くの観光客で賑わったこの場所も、今は訪れる人の姿はまばら。
聞こえてくるのは、黒瀬川の水音と、風が木々を揺らす音だけ。

「寂れている」と言えばそれまでだが、この静寂こそが何よりの贅沢に思える。
ここは、賑やかな観光地にはない「影」と、深い「歴史」を独り占めできる場所。

流された「赤い橋」と、置き去りにされた絶景

二級峡を訪れて最初に気づくのは、ある種の「欠落」。

かつて、この渓谷のシンボルとして、天然記念物の「甌穴(おうけつ)群」を見下ろすことのできる赤い吊り橋(甌穴橋)がかかっていた。しかし、2018年(平成30年)の西日本豪雨。あの未曾有の災害で、橋は濁流に飲み込まれ、流失した。

通路には簡易的なロープが張られている

あれから数年が経つが、橋は復旧していない。
対岸へ渡る術は失われ、かつて橋の上から眺められた絶景ポイントも今はもうない。

橋が落ちて以来、客足は明らかに遠のいたという。
だが、皮肉なことに、そのおかげでこの渓谷は本来の「自然の姿」を取り戻したようにも見える。

整備された遊歩道を行き交う観光客の列も、自撮り棒を持った集団もいない。
橋脚の跡という「災害の爪痕」を眺めながら、ただ一人、自然の猛威と無常観に浸る。
そんな過ごし方ができるのは、今の二級峡だからこそ。

橋は完全になくなり、その痕跡がひっそりと残っている

誰にも邪魔されず、海軍の「焦り」と対峙する

静寂の中、渓谷を遡ると、木々の隙間から巨大なコンクリートの塊がぬっと姿を現す。
「二級ダム」。

人の気配がない分、このダムが放つ異様な存在感(プレッシャー)が、肌に直接伝わってくる。
無骨なコンクリートの素肌は、ここがただの治水施設ではないことを無言で訴えているようだ。

完成は1942年(昭和17年)。
戦況が悪化の転じた年、太平洋戦争の真っ只中。

当時、「東洋一の軍港」と呼ばれた呉は、深刻な渇きに喘いでいた。
戦艦大和を建造し、航空機や砲弾を量産し続ける海軍工廠。
鉄を冷やし、動力を生むためには、莫大な量の「水」が必要だったからだ。
さらに、職工や軍属が全国から集まったことで、呉市の人口は40万人を超え(現在の約2倍)、飲み水さえ満足に確保できない極限状態にあった。

「水を送れ。一刻も早く」 それは要請ではなく、海軍からの至上命令だった。

水が止まれば工廠が止まる。工廠が止まれば、戦争に負ける。
そんな狂気じみたプレッシャーの中、ダム建設は始まった。

本来なら数年はかかる難工事。しかし、現場に与えられた時間はあまりに短かった。
1941年に周辺の道路整備が始まると、そこからは時間との戦いだった。工事の詳細な記録はのちの空襲ですべて焼失してしまったが、翌1942年には早くも竣工。
実質1年強という、現代の常識では考えられないスピードでこの巨大な壁は築かれた。

夜の渓谷に照明が焚かれ、ツルハシとダイナマイトの音が24時間響き渡る。
重機も十分にない時代、頼りになったのは「人」の力。
数百人規模の労働者が動員され、この険しいV字谷に挑んだという。
足を踏み外せば命はない。それでも、手を休めることは許されなかった。

驚異的なスピードで完成したこのコンクリートの壁は、当時の技術者と労働者たちが、国のために命を削って積み上げた「焦燥」と「執念」の結晶そのもの。

戦後、このダムは軍のための水から、市民のための「命の水」へとその役割を変えた。
長らく呉市の「水がめ」として親しまれてきたが、それも1997年(平成9年)に終わりを迎える。
上流の宅地開発に伴う水質の悪化が、皮肉にもこの巨大な建造物を「飲料水の供給」という大役から解放したのだった。

80年以上の時を経て、ダムは今も満々と水を湛えている。 誰もいない静かな森でこの堰堤を見上げていると、かつてここで響いていたであろう男たちの怒号や、岩を砕く音が、ふと耳元をかすめるような気がする。

「何もしない」をしに行く

今の二級峡には、派手な売店もなければ、映えるフォトスポットもない。
あるのは、崩落した橋の跡と、ダム、そして美しい甌穴。

だが、それがいい。
缶コーヒー片手に遊歩道の脇に腰を下ろしてみる。
目の前にあるのは、数万年かけて削られた岩と、数年前に壊された橋、そして80年前に造られたダム。

異なる時間の流れが交錯するこの場所で、ただぼんやりと時間を過ごす。
それは、多忙な現代を生きる人々にとって、最高に贅沢な休日ではないだろうか。

華やかな観光地にはもう疲れた。そんなあなたにこそ、この少し寂しくて、とてつもなく深い渓谷を訪れてほしい。

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