稀代の剣豪として知られる宮本武蔵。
その出生地とされる岡山県美作市の「武蔵の里」を実際に訪れてきました。

のどかな里山の風景が広がるこの地には、若き日の武蔵が過ごした息吹を今に伝えるスポットが点在しています。今回は実際に巡った生家跡や神社、お墓を振り返りながら、旅を通じて感じた武蔵のある「意外な才能」について考察してみたいと思います。

剣聖のルーツを辿る:生家跡と武蔵のお墓
まず足を運んだのは「宮本武蔵生家跡」。
武蔵は天正12年(1584年)、この地で生まれました。
父・平田無二斎、祖父・将監ともに十手術の達人という武術家の家系で、かつては「宮本の構(かまえ)」と呼ばれる約60メートル四方の茅葺きの大きな屋敷を構えていたそうです。火災による焼失等で幾度か立て直されていますが、大黒柱の位置は当時と変わらないと伝えられています。恵まれた武術の環境がここにあったのだと実感が湧く場所です。


この日はイベントもあり特別にお庭まで開放されていました。
家の中の様子をうかがうことができましたが、普段は敷地入口のところで進入禁止用のチェーンが設けられているようです。
そこから少し歩き、武蔵神社を抜けた裏手には「武蔵のお墓」が静かに佇んでいます。 晩年を過ごした熊本の地で亡くなった武蔵ですが、後に養子の伊織によってこの地へ分骨されたと伝わっています。父・無二斎の墓と寄り添うように並ぶその姿からは、諸国を彷徨った剣豪が最終的に故郷の家族のもとへと戻ってきた、そんな穏やかな繋がりを感じさせます。

二刀流開眼のヒントとなった「讃甘神社」の太鼓
武蔵の代名詞といえば、大刀と小刀を同時に操る「二刀流(二天一流)」です。その独自の剣術が生まれるきっかけとなった伝承が、ゆかりの古社「讃甘(さのも)神社」に残されています。

少年時代の武蔵は、この神社の宮司(神主)が打つ太鼓の「バチさばき」をじっと観察していたといいます。神事の中で、左右の手に持った2本のバチをそれぞれ異なる動きで、しかし完璧に連動させながらリズムを刻む様子を見て、「剣術も一本の刀に縛られる必要はないのではないか」と閃いたとされています。
右手は大刀、左手は小刀。一見すると別々に動いているようで、全体として調和の取れた一つの流れを作る二刀流の原点が、この神社の太鼓の音の中にあったと思うと非常に興味深いものがあります。
生まれる時代が違っていたら天才ドラマー?
武蔵が晩年に著した兵法書『五輪書』の地之巻には、このような一節があります。
「いかなる道にも拍子(リズム)がある。兵法はいうに及ばず、能や歌、あるいは職人の世界、はたまた世の中のあらゆる営みにおいて拍子が存在する」
「いかなる道」、ここでは兵法や芸能に言及していますが、もっと広く、自然界の水の流れや草木の揺れ、生命の息遣いまでに拍子を感じ取ることができたのでしょう。
武蔵にとって戦いや剣術の本質とは、単なる筋力やスピードの勝負ではなく、相手との間合いや呼吸、すなわち「拍子(リズム)」を支配することだったはずです。
讃甘神社で神主のバチさばきを観察し、そこから二刀流の発想を得たこと。そして生涯を通じて「拍子」の重要性を説き続けたこと。これらを繋ぎ合わせて考えてみると、武蔵の本質は極めて優れた「リズム感」と、それを身体で表現するコントロール能力にあったのではないかと思えてきます。
少し想像を膨らませてみると、もし武蔵が刀の時代ではなく、現代の音楽シーンに生まれていたとしたら、彼は間違いなく「天才ドラマー」として名を馳せていたはず。 左右の手足を完全に独立してコントロールし、相手(周囲の演奏者)の間合いを読みながら変幻自在のグルーヴを操る姿は、彼が理想とした「拍子の体現」そのもののようにも思えます。

勝負の神様「武蔵神社」に見る現代への遺産
「武蔵神社」は、昭和46年に建立された比較的新しい神社ですが、武蔵の生涯が「生涯無敗」であったことから、現在は文武両道や受験合格、スポーツの必勝祈願の神様として親しまれています。

もし「天才ドラマー武蔵」という仮説が的を射ているならば、ここは音楽や何らかの表現活動において「リズム(拍子)を掴みたい」と願う人々にとっても、隠れたパワースポットと言えるかもしれません。

まとめ
「武蔵の里」を実際に歩いてみて強く感じたのは、歴史の教科書に載っているような「お堅い剣豪」の姿だけではありませんでした。
自然豊かな美作の景色の中で、神社の太鼓の音に耳を傾け、世の中のあらゆる事象から「リズム」を感じ取っていた一人の青年の、鋭くもどこか柔軟な感性に出会えたような気がします。皆さんも美作を訪れる際は、ぜひ当時の太鼓の音や武蔵が捉えた「拍子」に思いを馳せながら散策してみてはいかがでしょうか。
たびさんぽ