さんぽするようなのんびりたび

【広島・呉】野呂山の麓に潜む巨石「銭神岩」。さぁ宝くじを買いに行こう

最近、元気で明るい観光地には少し気後れしてしまう自分がいる。

誰かの「最高!」というテンションに合わせるのではなく、ただただ静かな場所で、一人でぼんやりと息を吐き出したい。年齢を重ねて体力・気力が落ちたせいもあるかもしれないが、どうやら足は自然と「寂れた場所」へと向かうようになっている。

向かったのは、呉市郷原。
野呂山の広大な裾野にひっそりと鎮座する「銭神岩(ぜにがみいわ)」と呼ばれる巨石。

名前からして何かご利益がありそう。
しかしながら、きれいに舗装された参道も、おしゃれなカフェも併設されていない。そこにあるのは、人を寄せ付けないような森と、ある信仰のカタチ。

謎の情熱「火の用心」と、心細すぎる林道

目的地から少し離れたところにグリーンヒル郷原という公共施設があり、そこの駐車場から坂道を上っていくこととなる。その道中、ふと顔を上げた先、向かいの山(岩山)の頂上付近に、でかでかと「火の用心」と白文字で書かれた巨大な岩壁が見えた。

どうやら地元の有志の方々が書いたものらしい。火災は昔も今も重大なこととはいえ、戦国時代には毛利元就が攻めあぐねたという険しい山城の跡地に、わざわざ登ってあんな巨大な文字を描くとは。人間の謎の労力と情熱には本当に頭が下がる。
いまこの上り坂でさえ苦しくなる自分をどうしてくれよう。

そんなことをぼんやり考えながら進むと、やがて舗装路は途切れ、落ち葉が分厚く堆積した薄暗い林道へと変わっていった。

「本当にこの道で合っているのかな?」

遠くの方で車のエンジン音だけが不自然に響く森の中は、たった一人で訪れたいい大人の心に、十分すぎるほどの不安を植え付けてくる。熊でも出そうな寂れた気配。日常の喧騒から完全に切り離され、少し心細くなってきたその時、森の緑と同化しかけた風景の中に、突如として鮮やかな朱色の鳥居が姿を現した。

1億年の圧倒的な質量を前にして

鳥居の先に待ち受けていたのは、立派な社殿などではない。
見上げるほど巨大な、一枚の岩の壁。

写真ではなかなか伝わりきらない、のしかかってくるような圧倒的な質量。地質学的に言えば、白亜紀末期、約1億年前の火山活動で形成された「流紋岩」というものらしい。岩肌に刻まれた流れるような模様は、マグマが冷えて固まった地球の記憶。

古代の人々が、この規格外の自然物に神が宿る「磐座(いわくら)」だと畏れを抱いたのもよくわかる。
そこには、宗教の小難しい理屈など必要なく、ただただ純粋な自然への畏怖と、張り詰めたような静寂だけが存在していた。

1億年という途方もない時間を微動だにせず過ごしてきた巨石を前にすると、昨日の仕事の小さなミス、ひざの痛み、肩こりが治らないといった自分の日々の悩みが、ひどくちっぽけなものに思えてくる。

黄金の鶏と宝くじ。俗っぽさもまた、信仰のありかた。

ところで、なぜこの厳かな巨石が「銭神」などという、いささか生々しい名前で呼ばれているのか。

背景には、この地に眠る「正月に黄金の鶏が鳴く」という金鶏伝説や、平家の落武者が隠れ住んだという伝承があるらしい。要するに、歴史の動乱の中で「ここに莫大な富(銭)が隠されているのではないか」という人々の期待や妄想が、もともとの磐座信仰に重ね合わさっていったのだろうか。

「宝くじが当たりますように」

現在では宝くじ祈願のスポットとしても認知されているご様子。
1億年の歴史を持つ荘厳な巨石にすがりつき、願うことは今も昔も「お金」なのだ。

永遠のように変わらない無機質な自然と、そこにまとわりつく、ちっぽけで生々しい人間の「金運」への執着。この見事なまでのコントラストがまた良い。

昔の人も今の自分たちも、考えることの本質は大して変わらないのではないか。

少々俗っぽくはあるけれど、そんな人間の弱さや欲深さを、文句も言わずに静かに受け止めてきたこの巨石の度量こそが、日本の土着信仰のリアルな姿なのだろう。
私も帰り際に「少しでもお給金が増えますように」と手を合わせておいた。当然だ。

ひんやりとした森の空気を胸いっぱいに吸い込み、再び落ち葉を踏みしめて、騒がしい日常へと戻る。

誰もいない静寂の森で、永遠の時間と人間のちっぽけな欲望の交差点に立つ。
そんな孤独な休日も嫌いじゃないです。

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