さんぽするようなのんびりたび

黒瀬街道の常夜灯が照らした旅路。旧街道の不便さから気づく現代のありがたみ

スマホの画面が数秒フリーズしただけで、つい指先で画面を何度も叩いてしまう。
電車がたった5分遅延しただけで、露骨にイライラして時計を睨みつけてしまう。

昔の生活と比べたら、今の世の中は魔法のように便利で快適になっているはずなのに。ほんの少しの遅れや、思い通りにいかない小さな不便に出くわすだけで、ひどく心がかき乱されてしまうことがないだろうか。
いつの間にか、すっかり便利さに心を飼い慣らされてしまっているのではないか。

今回、そんな「少しの余裕をなくしてしまった」我々にとって、ちょっと立ち止まって深呼吸したくなるような「黒瀬街道」のご紹介。

海と内陸を結ぶ大動脈「黒瀬街道」

広島県の瀬戸内海に面する呉市の広町から郷原町を抜け、東広島市の黒瀬、そして酒都・西条へと至る道が「黒瀬街道」。

今でこそ高規格幹線道路「東広島呉自動車道」があり、ずいぶんと早く移動できる区間になった。
しかし、かつて「黒瀬街道」は、道険しいながらも海沿いの地域と内陸の盆地を結ぶ大動脈であり、人や物資が絶えず行き交い、長らく地域の経済や文化を支える重要な位置づけにあった街道だった。

交通の難所から馬車道への歴史

地域にとって重要な道であった一方、かつての黒瀬街道は大変狭い石畳で、急な坂が続く交通の難所でもあった。
重い荷物を背負い、自分の足だけを頼りに峠を越える道のりは、現代の我々からは想像もつかないほど過酷なものだったはず。

その後、明治時代に入ると、黒瀬の豪家であった平賀寛夫氏によって改修が計画される。
馬車なども通れるようにと道が開かれ、街道は時代とともに近代化の歴史をたどっていくことになる。

闇夜の命綱であった「常夜灯」

そんな過酷な道のりをゆく旅人にとって、特別な存在だったものがある。
呉市の広町から郷原町にかけての山間部に、今もひっそりと佇む「黒瀬街道の常夜灯」。

明治16年に建てられたこの常夜灯は、街灯など存在しなかった漆黒の闇夜において、往時の旅人の安全を守る命綱ともいえる存在。冷たい夜道で遠くにぽつんと灯る明かりを見つけた時、当時の旅人はどれほど安堵したことか。それは単なる明かり以上の、心の支えだったのだと思う。

南にしか口がない理由

ちなみに、この常夜灯には少し興味深い特徴がある。実物を見るとわかるが、火を灯すための「口」が南側にしかついていない。

吹き下ろす冷たい北風から大切な火を守るための工夫だったのか。あるいは、南側の呉方面から急な坂を息を切らして登ってくる旅人を真っ先に出迎えるためだったのか。

確かな理由は当時の人のみぞ知るところだが、そんな小さな細工を眺めていると、かつてこの道を行き交った人々の姿や、それを思いやる静かなストーリーが実像をもって浮かび上がってくる。

常夜灯の向かいに六角堂

常夜灯のすぐ向かいには「六角堂」というお堂がぽつんと建っている。
何が祭られているのかうかがい知ることはできないが、旅人の往来安全を祈願してのものだろう。
冬時期には入口の階段も落ち葉に埋め尽くされていたが、決してほっとかれているわけでもなく、しっかりと維持管理されているように見える。

不便さを知ることで気づく、今のありがたみ

現代の生活は本当に便利になった。
ボタン一つで部屋は明るくなり(何ならボタンすら押さないことも)、車に乗れば快適な温度のまま目的地へ着く。

しかし、こうしてかつての不便で過酷な旧街道の歴史に触れ、常夜灯を見つめていると、「今の当たり前の便利さは、先人たちの途方もない苦労の上に成り立っているのだ」と、静かな感謝の念が湧いてくる。地域の歴史を知ることで、いつもの風景が少しだけ違って見えてくる。旅の面白さは、そんな何気ない発見にあるのかも。

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