【三島市】養殖地ではないのに「うなぎの聖地」?極上のうなぎ文化が根付いた歴史と「水の秘密」

静岡県で「うなぎ」と聞くと、多くの人が浜名湖で知られる浜松を思い描くかもしれません。しかし、県東部に位置する三島市は、自前でうなぎの養殖を行っていないにもかかわらず、全国から多くのファンを引き寄せる「うなぎの聖地」として知られています。

なぜ産地ではない三島がこれほどまでにうなぎで名を馳せているのでしょうか。その背景には、信仰と歴史の転換劇、宿場町としての土地柄、そして富士山をはじめとする山々がもたらす豊かな伏流水の存在があります。

禁忌から名物へ:三嶋大社の伝説と明治維新の「解禁劇」

かつて三島において、うなぎは「食べる対象」ではありませんでした。伊豆国一宮である三嶋大社の池(神池)に棲むうなぎは「神の使い(水神の使者)」とされ、口にすれば神罰が当たると固く信じられていたためです。江戸時代には、徳川2代将軍・秀忠が三島に滞在した際、家臣が神池のうなぎを捕らえて食べたことで処刑されたという伝承が残るほど、地元の人々にとってうなぎは絶対的な禁忌でした。

この風習が一変するきっかけとなったのが、幕末から明治維新にかけての出来事です。三島に駐留した薩摩藩や長州藩の官軍兵士たちが、こうした言い伝えを知らずに(あるいは気にかけずに)うなぎを捕らえて食してしまいました。しかし、彼らに神罰が下ることはありませんでした。これを目撃した地元の人々も次第にうなぎを食べるようになったと伝えられており、信仰の街・三島において食文化としてのうなぎが広がっていく象徴的なエピソードとなっています。

宿場町の胃袋を支えた「旅人の活力源」

信仰の解禁とともに、三島の地理的条件もうなぎ文化の定着を後押ししました。 三島は東海道五十三次の「三島宿」として栄え、古くから多くの旅人が行き交う交通の要衝でした。東海道最大の難所とされる「箱根越え」を目前に控えた旅人、あるいは険しい峠を越えて疲れ果てた旅人たちにとって、滋養強壮に優れたうなぎ料理は格好のスタミナ源となったのです。人々の往来が盛んな宿場町としての土壌が、うなぎ料理を地域の名物へと押し上げていきました。

富士山がもたらす地下水:産地を凌駕する仕込み技法「水晒し」

三島うなぎの真の強みは、「産地」という枠組みを超えたその仕込み技法にあります。 三島の地下には、富士山や周辺の山々に降った雨や雪が長い年月をかけて地層の中でろ過された、冷たく清らかな伏流水が豊富に湧き出ています。三島のうなぎ店の多くは、全国各地から仕入れた質の良いうなぎを、調理前にこの汲み上げた地下水に数日間泳がせる「水晒し(みずさらし)」を行います。

清らかな水の中で数日間過ごさせることで、うなぎ特有の泥臭さや生臭さが体外へ排出されます。さらに、絶食状態で泳がせることで余分な脂が適度に落ち、身質がキュッと引き締まった上品な素地へと生まれ変わるのです。養殖地を持たない三島が「極上の味」を提供できる秘密は、この水による下処理にあります。

老舗「桜家」が追求する独自の美学「かるみ」

各店が名水で仕込みを行い、個性豊かな味わいを競い合う三島。その中でも、安政三年(1856年)創業の老舗「うなぎ 桜家」は、独自の味覚理念として「かるみ」を掲げています。ちなみに創業当時は、屋号の通り「桜肉(馬肉)」を提供するお店でしたが、時代の流れとともにうなぎを扱うようになり、今や三島を象徴する名店として歴史を重ねてきました。

同店が掲げる「かるみ」とは単に味が薄いことではなく、重たい脂っぽさや雑味を取り除き、最後まで軽やかに美味しく食べ切れる至高の調和を指します。

桜家では、備長炭の強い火力で生のうなぎを一気に焼き上げつつ、職人が「うちわ」で繊細に風量を操って余分な脂を落とします。その後、銅製のせいろでふっくらと蒸し上げ、甘さを抑えたさらりとした家伝のタレをつけて再び香ばしく焼き上げます。白身魚のようにふわふわで、食べて食べ飽きない軽やかな境地は、職人の繊細な技術と水仕込みによって創り出されています。

街のせせらぎとともに味わう三島の一食

三島のうなぎは、単なるご当地グルメではありません。神聖視された歴史、箱根を越える旅人を支えた宿場町の情緒、そして富士山をはじめとする自然が時間をかけて育んだ水が織りなす物語そのものです。

お店の順番待ちの合間に源兵衛川など街を流れる水辺を散策し、清流の涼風を感じる。そして暖簾をくぐり香ばしい一皿と向き合うとき、三島という土地が育んできた歴史と恵みを、五感で堪能することができるでしょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA



reCaptcha の認証期間が終了しました。ページを再読み込みしてください。